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佐々木敦の『ニッポンの思想 増補新版』を読んだ!感銘を受けた!#ニッポンの思想 #哲学

はじめに

佐々木敦『ニッポンの思想 増補新版』を読んだ。良かった。

なお本記事のタイトルは、AIタイトルアシスト(ソーシャルメディア向けタイトル)に生成してもらった。

本書は2009年7月20日講談社現代新書として刊行された『ニッポンの思想』に加筆修正を加え、「第九章 ストーリーを続けよう?(On with the Story?)」「第十章 二〇二〇年代の「ニッポンの思想」」を増補して文庫化したものらしい。

以下では増補部分に関して思ったことを述べる。

東浩紀系論者の非文化左翼

福嶋、濱野、宇野の三人は、タイプが相当に異なっている[中略]。しかし彼らには「文化左翼」的な振る舞いをほぼまったく採っていない、という共通点がある。(p.346)

これは濱野智史アーキテクチャの生態系』を読んだ際に思った。

アーキテクチャにせよ、環境管理型権力にせよ、それらは「人に何かを強制的に従わせるもの」という概念規定がなされています。すると不思議なもので、人は「権力」という言葉を聞くと、それに抵抗しなければならないと考えてしまう。それは何か私たちの自由や主体性(自由意志)を奪ってしまっているような気がしてしまう。これを「権力バイアス」あるいは「権力と自由のゼロサム理論」と呼んでみてもいいのかもしれません。(p.28)

にわか岩波左翼である私にはこの記述は引っ掛かった。 大体のアーキテクチャ論は環境権力批判に繋がるものと思っていた私にとっては、肩透かしを食らったように思えたのだ。

フーコーの規律社会論やドゥルーズの監視社会論を踏まえると、「えっ、アーキテクチャ環境管理型権力をこんな簡単に処理していいの?」と思わざるを得ないが、どうやらこれは東浩紀の伝統に立つオタク系批評家の傾向らしい。 「宇野常寛は思想・哲学に詳しくないのでしょうか?」という彼の著書に付けられたAmazonレビューを見たことがあるが、これがそのレビューが書かれた一つの背景的要因かもしれない。

オタク系批評の自己矛盾性

個人の営為としては、今も「オタク系批評」は成立し得るし、どこかでやられている。問題は、それが影響力を持たないこと、批評対象を愛でる趣味的共同体の内部にも、批評対象及び当該ジャンルの外部にいる数多の他者たちにも、つまり「内」にも「外」にも訴えかけることが出来ないということなのではないか。承認欲求も陣地拡大も放棄し、嬉々として「現場」に閉じこもるテン年代型のオタクたちは、本質的に「外から目線」であるべき「批評」を意識的/無意識的に排除することによって、絶望的なまでに幸福な「閉じこもり」を、より強固なものにしている。 (p.347)

著者はこの後に「(オタクは)『外部』を自ら進んで忘却している」と続ける。

これはカルチュラル・スタディーズがその主な問題意識として指摘する、人文学系アカデミアの鬱血という事態に準えることができる。 自己の縮小再生産は自らの死を帰結するだけなのだ。

この点において私もまた同じ穴の狢であるかもしれない。 しかし私はこの帰結を避けるために、某批評誌への寄稿ではなく学会誌への寄稿を選択したいのである。 すなわち「西洋調性音楽中心主義の批判」は、オタクによって寄稿され、オタクによって消費される批評誌に寄稿することによっては達成されない。 批評対象を外部へ逃してやらなければ決して達成されないのである。 これはコンスタティブではなくパフォーマティブな位相にある問題だ。

(「西洋調性音楽中心主義の批判」とは、先日書いた記事で私が述べた主張である)

音MADは以上に述べたサブカルチャーに属するインターネット民藝2のひとつであると言えるだろう。 しかしそれゆえ音MADはアート・ワールド(ダントー)の定める《芸術》からは程遠く(少なくともファインアートからは程遠く)、他のサブカルチャーに比べて関連する研究・批評がそれほど進展しているとは言い難い(この点から西洋調性音楽中心主義を批判することができる)。

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思想市場

哲学・思想研究者の X/Twitter や note 上でのプレゼンスが〈思想市場〉で彼らが売れる条件となった、すなわち、思想市場が書店からインターネット上のソーシャルメディアプラットフォームに移ったということである。 名を挙げれば、宮台真司 (https://twitter.com/miyadai) 、千葉雅也 (https://twitter.com/masayachiba) 、國分功一郎 (https://twitter.com/lethal_notion) 、永井均 (https://twitter.com/hitoshinagai1) 、山口尚 (https://note.com/free_will) など。

各プラットフォームにおけるフォロワー等のエンゲージメント指数を基にした バーチャートレース を制作してもよいかもしれない。 それが思想市場における各プレイヤーの存在度の高低を示すだろうから。

時には見知らぬ一般人にリプライを返したりするなどして、彼らは〈思想市場〉での自身のプレゼンスを直接的な方法で高めることができるようになったのである。

また孫引きではあるが、千葉雅也『動きすぎてはいけない』に

情報のオーバーフローにおいては、意志的な選択よりも、偶のタイミングで取捨されてしまった情報のいくつかのみに反応せざるをえないということが、前景化している。このことを、文明の堕落であると言って済ませるわけにはいかない。情報のオーバーフローに翻弄される私たちの不随意な痴態は、哲学的な示唆に富んでいる。(引用元 p.371)

とある。 「情報のオーバーフロー」的状態を呈しているインターネットにおいて戦略的に「偶」を最大化することにより、哲学・思想に対する一般人のリビドーを回収しようとしているのは千葉氏である。

おわりに

『ニッポンの思想』は労作である。