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〈映像素〉と Nelson Goodman の稠密性概念の対立

記号論の文脈で、〈映像素(videme)〉という概念がある。 Umberto Eco が用いていた映画記号論上の概念で、たとえば映像に映っている演者の手中にある烟草とか、人の顔とか、そういったものを指す語である。 つまり、映画という媒体における記号素となる概念である。 当たり前だが、これは離散的な単位である。

これに対し、Nelson Goodman は彼の著書『芸術の言語』において、映像の各コマとなる画像は稠密であるという。 つまり、映像の各コマは連続的な二次元平面からなり、当然連続的な時間を含む映画は連続的=稠密な記号システムを持つ媒体であるということになる。

したがって、Eco の映画記号論と Goodman の記号論(symbolism)は、その記号系を構成する単位において矛盾するはずである。 このことはあまりに自明なことだが、Eco の映画記号論というか、(symbolism でない)semiotics の方の応用記号論が寂れすぎて誰も指摘していないらしい。

応用記号論は、本記事のようなインターネット上のクソ記事でも理論にとりわりかし重要な差異を指摘できてしまう、廃れた分野なのである。