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音MAD/YTPMVのプロジェクトファイルを共有するためのサイトを作った

実は5年前くらいに rails new を叩いており公開は行っていたのだが、このブログでは宣伝をしていなかったので、ここで宣伝したいと思う。

arealapp.com

Areal は、音MADやYTPMVで用いられるプロジェクトファイルを共有するためのWebアプリケーションである。 私が個人開発している。

作品を表示するページ

使い方としては、RPP 等のプロジェクトファイルを、実際にレンダリングされた作品の公開URLを添付して投稿し、ダウンロードしてもらうとか、いいねしてもらうとか、そういった用途を想定している。 作者のフォロー機能やブックマーク機能がある。 また、Twitter(X)とDiscordアカウントを用いてアカウントを作成することができる。

対応するプロジェクトファイルの種類(記事公開時点)

記事公開時点で対応しているプロジェクトファイルの種類は次の通りである。

機能

  • プロジェクトファイルの投稿
    • タグ機能
    • 検索機能
    • いいね機能
    • 作品リンク機能(iframe)
  • フォロー機能
  • ブックマーク機能

使ってくださると幸いです。

arealapp.com

情報メディア創成学類の大学院推薦率(21生)

大学院進学をにらみつつ、情報メディア創成学類を志望している高校生や高専生、高校と高専のどちらに進学しようか悩んでいる中学生のために書いておこうと思う。 なお、本記事の情報は21生(令和3年度入学)のものになるので、将来は変動しているかもしれない。

推薦率

大学院推薦を受けるために必要な成績は、「A+ と A の総単位数/A+ と A と B と C の総単位数(「Aの割合」) > 0.7」となっている。ただし、0.7付近であれば大丈夫らしい。 入試情報 入試データ|筑波大学情報学群 情報メディア創成学類/University of Tsukuba および https://scs.tsukuba.ac.jp/content/uploads/sites/3/2023/06/8e83d2cb0bf7dc88c789da1bdb384dd1.pdf を参考にして、推薦を受けることができた同期の率を算出した。ただし、具体的な人数が公にしていい情報であるかは不明であるため、おおよその値のみを記載する。

属性 推薦率
令和3年度入学者および総合学域群からの編入 0.32
3学年編入 0.67

この表からは、高専からの編入生の方が推薦率が高いという事実が得られると思う。

Numbersによる「Aの割合」の算出

Numbers では、TWINS からダウンロードできる成績照会の表データに対し次の関数を適用することで、「Aの割合」を算出することができる。Excel の場合は知らない。

SUMIF(総合評価, REGEX("A+|A",),単位数) ÷ SUMIF(総合評価, REGEX("A+|A|B|C",),単位数) 

『意味がわかるAI入門』批判

2023年9月出版の比較的新しい書籍である. 現代言語哲学で主力である真理条件意味論を取り上げて,それを分布意味論(意味の使用説の一種)と比較している第二章は稀有であり,本書の白眉である(第一章はAIの系譜学).

まず,本書の主張を読む際にあたっては著者の経歴及び彼の受けている影響を鑑みるべきである.著者は東京大学人文社会系研究科出身の博士(文学)である.また,「私は、とある言語学の学派からの影響で、ニューラルネットワーク研究の果てに人間の言語能力の秘密が解明されるという見込みに懐疑的です。」(p.303) と述べている.つまり,著者によってそれとは明かされない,ある言語学派の主張に整合的であろうとすると,ニューラルネットワーク研究が言語の解明にトドメを刺すことはないという結論に著者は至るのである.本書の主張は,このことを差し引いて評価されねばならない.以下では,著者の各主張に対する批判的検討を行う.

5-1

著者は,Word2vec が未知の単語に対応不可能なことを指摘する.また,その問題への対策として fastText を紹介するが,「where → whe + ere」等の意味を持たない部分文字列への分割を生んでしまうことを指摘する.

応答: fastText の性能の説明が十分でない.つまり,既存の言語学形態素分析とのスコア比較が掲載されておらず,読者の直観に訴えかけるのみとなっている.形態素による分析が単純性の点で勝るにせよ,言語生成の性能という外的整合性が劣っていれば,比較して優れていると結論できないだろう.

ちなみに,漢字もまた部分から構成される点で,合成語と似たものである.これに関する研究には,以下のものがあるらしい(本書の内容ではないが).

aclanthology.org

5-2

二点の主張がある.

  • 「ローマ」と「イタリア」の関係は,他の可能世界では偽になりうる偶然的な地理的関係であり,意味ではない.
  • ジェンダー等の道徳的規範が守られていない.

応答: まず第一の主張は,真理条件意味論(可能世界)を仮定した場合に導かれるものである.そもそも,現代の大規模言語モデルが示唆するように,言語使用と現実世界との対応(記号接地)は別のメカニズムである可能性が高く,真理条件意味論はこの点においても困難をきたしている(『人工知能の哲学入門』p.171 を参照). 第二の主張もまた,合成原理を仮定した場合に導かれるものであるが,かなり困難をきたしている,というより論が通っていないと言わざるを得ない.倫理に違反する言語使用が無意味である,という結論はおかしいだろう.なぜならば,例えば誰かが「女性は洗濯・掃除をすべきである」という(本質主義的)発言を行う際に,それを無意味だということは我々の通念に反するからである.そもそもこの文に意味がないならば,我々はそれを理解し,倫理的に反応する(非難する)ことさえ不可能になってしまうだろう.本書の初めの方に著者自身が引いた,「人種やジェンダーといったセンシティブな質問に適切な回答を返す」ことに対する賞賛と,どう折り合いをつけるのだろうか.果たして,人間の入力する「人種やジェンダーといったセンシティブな質問」は無意味であると結論するのだろうか.著者はこれを,合成原理であれば回避できる問題である,と主張するが,これもLLMに「語の内包的意味に基づいて回答して」などと言えば,安易に解決されてしまうだろう.

5-3

著者は次のように述べる.「英語や日本語のようにメジャーな言語ならともかく,マイナーな言語では大量の文書データが手に入るとは限らないので、低リソースの言語でも言語モデルの性能を向上させることには実用上の利点がある。それに何より、人間の言語能力に関心があるなら体系性を無視することはできない」.すなわち,大規模言語モデルには体系性が不足しており,実用的課題として,マイナー言語の存続に関わりうるというものである.

応答: しかしこれもまた,技術的な進展によって解決される可能性が大である(『大規模言語モデルは新たな知能か』)上,記号主義的アプローチと合わせて使うことで,ニューラルネットワークモデルを体系性を持った形に拡張することは可能である.

6

「幻覚」(ハルシネーション)を,言語哲学上の観点から,もっと積極的に評価してほしかったというのが私の意見である.というのも,形式意味論言語学も,嘘を周縁的なものとして扱ってきたきらいがあるからである.真理条件意味論はその首領であろう.なぜ,フィクション論が理論の拡張というネガティブな形でしか与えられなかったのか? それは既存の理論においては,文字列が,現実と対応しなければならなかったからである.しかし「幻覚」を観察すれば,現実世界における使用頻度に従うため無関係とは言えないにせよ,言語はその本質においてむしろ現実と独立したものと考えうるのである.つまり,使用の確率分布と現実との対応は理論的に分離されていなければならなかったのだ.これを一緒くたにしたことで,理論が拡張に次ぐ拡張,ぶっちゃけて述べれば「退行的プログラム」となってしまったのではないか.

現代形而上学においては,理論評価のための基準として,「正確性・(内的・外的)整合性・単純性・包括性・一貫性」という五つの基準が用いられている(『現代形而上学』p. 145).いまのところは,構成的なものであって「理論」ではないと言うことは可能にせよ,いずれは大規模言語モデルの理論は分析的アプローチによって「理論」としての身分を得ることになるだろう(哲学者が数式を受け入れるのであれば).

いうまでもなく,言語哲学及び言語学上の命題は,大規模言語モデルの振る舞いに整合的でなければならない.その過程において,いくつかの命題は撃ち落とされるだろう.反対に,真理に漸近していたと評価されるものもあるかもしれない.数十年後には,真理条件意味論が廃れていることもありえないことではない(かつての記号論のように).いずれにせよ,言語理論と大規模言語モデルとの反照的均衡による言語哲学の刷新は不可避なのであって,言語の一ユーザーである我々は,この動向を今後とも注視していきたいものである.

永井哲学と入不二哲学の関係は π/2 なのか

はじめに

X上でなぜかしばしば直接的・間接的に絡んでくださる谷口一平氏が、次のようなポストを投稿していた。

永井哲学と入不二哲学の関係は π/2 らしい。 永井哲学か入不二哲学の一方のノルムが0の場合でも、内積は0になるけどね。

本記事では、コサイン類似度とテキスト埋め込み(分散表現)を用いて、「『永井均の哲学』と『入不二基義の哲学』の関係は π/2 なのか」を、リテラル調べてみようと思う。

コサイン類似度

コサイン類似度  \cos(v, w) は、2ベクトルの類似度の表現の一である。 また、ピアソンの相関関数  r(v, w) は、コサイン類似度を中心化したものと考えることができる。 ベクトルを引数に取る演算子  f f(v) = f( (v_1, v_2, \dots, v_n) ) = (v_1, v_2, \dots, v_n) - 1/n \sum_{i=1}^n v_i (ただし、- は前置ベクトルのすべての要素に対して、後置スカラーを減算することを表す)と定義すると、等式  \cos(v - f(v), w - f(w)) = r(v, w) が成立する。

分散表現

「テキストの分散表現とは」といった説明は、自然言語処理の教科書の最初の方に書かれている事項であるため省略する。 今回は、 OpenAI 社が提供するテキスト埋め込みモデル text-embedding-3-large を用いる。 次のリンクは、API ドキュメントである。

https://platform.openai.com/docs/guides/embeddings

コード

以下の Python コードを用いて、『永井均の哲学』と『入不二基義の哲学』のコサイン類似度および度数法表現を出力する。

import openai
import numpy as np

inputs = ["永井均の哲学", "入不二基義の哲学"]
model = "text-embedding-3-large"

res1 = openai.Embedding.create(
    input=inputs[0],
    model=model
)

res2 = openai.Embedding.create(
    input=inputs[1],
    model=model
)

def calculate_cosine_similarity(v1, v2):
    """2つのベクトル間のコサイン類似度を計算"""
    return np.dot(v1, v2) / (np.linalg.norm(v1) * np.linalg.norm(v2))


input_embeddings = [res1.data[0].embedding, res2.data[0].embedding]

sim = calculate_cosine_similarity(input_embeddings[0], input_embeddings[1])
print(f"コサイン類似度: {sim}")

# コサイン類似度を角度に変換
sim = np.arccos(sim)
sim = np.degrees(sim)
print(f"角度: {sim}")

実行

実行!

❯ python ~/hoge.py
コサイン類似度: 0.6130158455291262
角度: 52.192110853994855

うーん、52度になってしまった。むしろ、45度に近い結果に。

原ツイートでは「永井哲学と入不二哲学の関係」となっているので、inputs = ["永井哲学", "入不二哲学"] に変えて実行。

❯ python ~/hoge2.py
コサイン類似度: 0.6680563453346285
角度: 48.082770729609514

48度になった。あまり変わりがない。

inputs を「超越論的構成」と「横方向への展開運動」へ変えてみよう。

❯ python ~/hoge3.py
コサイン類似度: 0.21494257203890757
角度: 77.58784184435343

およそ 76 度になった! 90度に近づきつつあるのかもしれない。

inputs = ["山括弧の存在", "垂直に働く現実性の力"] の場合。

python ~/hoge4.py コサイン類似度: 0.2578236956709326 角度: 75.05903295994082

これも 75 度だが、90 度に近いかというと微妙である。

まとめ

いかがでしたか? みんなも分散表現で遊んでみよう!

後記

谷口氏より以下の引用リツイートを拝受した。

私から言えることとしては、(それらの違いも研究の対象となるほど)脳科学ニューラルネットワークによる大規模言語モデルは同じものではない(ニューラルネットワークでは個々のシナプスの重みを外的に調整するが、人間の脳には外部からそれらを調整する機序はないなど)。 ぜひとも「適切な次元の解答」を期待したい!――とか言ったら怒られるだろうか。

情報学研究データリポジトリのニコニコデータセットのダウンロードに関する備忘録

www.nii.ac.jp

国立情報学研究所の情報学研究データリポジトリにはニコニコデータセットというものがある。 そのダウンロードページには 0001.jsonl0002.jsonl…… 0999.json といったようにJSONLファイルが連番で掲載されている。 一つひとつの動画に対応するフィールドは次のようになっている。

{"video_id": "sm39398000", "watch_num": 4, "comment_num": "1", "mylist_num": 1, "title": "【ガルシン】ヴュータンキャラスト", "description": "くっそかわいい<br><br><br>mylist/71458779", "category": "game", "tags": "ガルシン ガールズシンフォニー", "upload_time": "2021-09-27T16:17:02+09:00", "file_type": "mp4", "length": 921, "size_high": 1, "size_low": 1}

サイト主には Wget再帰オプション wget -r でダウンロードするよう勧められるのだが、いかんせん Wget は単線的であるためダウンロードが遅い。 ARIA2 はこの用途では使えなかったため、GNU Parallel を用いて Wget を複線化することで対応した。

for i in $(seq -w 0 1000) do; echo ${i}.html >> urls.txt
cat urls.txt | parallel -j 100 wget -nc {}

GitHub か GitLab に公開してくれ!

〈音楽素(museme)〉と〈旋律素(meleme)〉

museme

ポピュラー音楽学者 Philip Tagg により提唱された概念であり、museme = music + phoneme という造語で、音楽における書記素(phoneme)を表す。 『[クリティカル・ワード]ポピュラー音楽』の「楽曲」節(川本聡胤著)にて、音楽の間テクスト性を説明するために用いられていた。

いまいち日本語での定訳が分からないが、本項では「音楽素」と呼ぶことにする(川本は「ミュージー厶」と訳している)。

Phillip Tagg "Analysing Popular Music: Theory, Method and Practice" は https://www.jstor.org/stable/852975

Stefania Zielonka によれば、museme の他にも museme stacks や meseme strings という概念があり、次のようなものであるらしい1

Tagg describes the basic elements of musemes – tone beats – as ‘musical phonemes’, while musemes themselves are the basic units of musical expression that cannot be divided into smaller elements within a given musical system without asimultaneous change of meaning, and are compared to morphemes. It should also be noted that while Tagg uses changes in pitch as the main example of identifying musemes

音高の変化がmusemeの例として挙げられている。音高の変化は意味内容を持たないらしい。

simultaneous compositions of musemes are described by Tagg as museme stacks

音楽素の同時間的な重なりである。

While a stack of musemes is a category more usually referring to vertical systems, in music there are also some wholes made up of consecutive musemes, described by Tagg as museme strings

音楽素の通時間的な流れである。

尤も音楽に書記素があるのかといったことや音楽素の正確な定義については、Tagg 自身のウェブサイトの記事にて「it may have no satisfactory definition」と記されている通り微妙なラインではあるのだが、「focuses attention on musical-structural detail and on the relation of such detail to life outside music」ためには有用らしい。

www.tagg.org

meleme

これに対して、音楽記号論における Henri Lefebvre により提唱された〈旋律素(meleme)〉という概念は、ポピュラー音楽学で提唱された〈音楽素〉とは逆に、「音楽における意味内容を有する最小単位(=形態素)」という概念である2。 つまり Lefebvre は旋律を、最も小さく有意味な単位として考えていたと思われる。

この概念は、1971年に刊行された『musique en jeu No.5』に載っているらしいが、稀覯本すぎて私の手に入らない。

paramusical

Tagg が提案した語には paramusical という paratext と似た語があるが、これは音楽を取り巻く社会的言説などを指すらしい。 外延は「audience, venue, lyrics, images」などらしい。

tagg.org

tagg.org


  1. Zielonka, Stefania. (2020). Musemes in affect. Philip Tagg’s model of music analysis. Interdisciplinary Studies in Musicology. 97-105. 10.14746/ism.2020.20.8. URL: https://www.researchgate.net/publication/348673759_Musemes_in_affect_Philip_Tagg%27s_model_of_music_analysis
  2. 脇阪豊, 川島淳夫, & 高橋由美子. (1992). 記号学小辞典.

Lucien Dällenbach «Intertexte et autotexte»

以下は Lucien Dällenbach «Intertexte et autotexte» (Poetique: Revue de Theorie et d'Analyse Litteraires27 (27) p.282)の無断複製。 JSTOR に上がっていなかったので、勝手に載せることにした。

本論文は間テクスト性(intertextualité)を3つに分類している。すなわち

  • intertextualité générale(一般的)
  • intertextualité restreinte(制限的)
  • intertextualité autarcique(自己内部的) = autotextualité(自己的)

である。

制限的な間テクスト性は同著者によるテクスト群を、自己的な間テクスト性は通時的に変化する同テクスト群を指す。

A défaut d'exploiter toujours des couples paradigmatiques — implicite vs expli-cite, centré vs non centré, direct vs indirect — dont la mise en jeu nous parait présupposée par l'élaboration d'une véritable typologie intertextuelle, les théoriciens distinguent communément entre une intertextualité interne et une intertex-tualité externe. Sans contester le bien-fondé d'une telle distinction, force est bien de remarquer que la ligne de partage est tracée diversement selon les cas et que ces fluctuations ne sont pas sans incidence sur la délimitation de l'objet théorique conçu et signifié sous le nom d'intertextualité.

I. INTERTEXTE ET AUTOTEXTE

Pour n'en donner qu'un exemple, relisons dans cette perspective deux textes de Jean Ricardou. Dans l'étude présentée au colloque Claude Simon de Cerisy la-Salle (1974), une discrimination est établie entre intertextualité générale (rapports intertextuels entre textes d'auteurs différents) et intertextualité restreinte (rapports intertextuels entre textes du même auteur1). Or cette démarcation n'est pas superposable à celle que propose Pour une théorie du nouveau roman (1971) où, soucieux de mettre en cause l'unité d'une œuvre et la notion corrélative d'Auteur, Ricardou en arrivait fort logiquement à distinguer entre une inter-textualite externe entendue comme rapport d'un texte à un autre texte et un intertextualité interne comprise comme rapport d'un texte à lui-même ?

    1. Four une thore dl oveau Tomar, Paris, Ed. du Seuil, 1971, s. 162

Il n'entre pas dans nos intentions d'harmoniser deux systèmes qui, sans doua ne peuvent exister que concurremment. Mais à comparer les domaines respectils qu'ils recouvrent, on observe que du point de vue de l'extension du concept, le premier en date fait à l'intertextualité une part plus belle que le second et que, par suite, le seul moyen d'éviter que le passage de l'un à l'autre ne se solde par une restriction de champ serait de reconnaître l'existence, à côté de l'intertextualité générale et de l'intertextualité restreinte, d'une intertextualité autarcique, Afin de mettre l'accent sur son originalité propre et de ne pas heurter par un nouveau predicat des habitudes lexicales bien ancrées, nous proposons, dans le sillage do Gérard Genette, de nommer cette intertextualité autarcique autotextualité.

Circonsorit par 1'ensembleu es specine pas lim tipicain de de lu coures le cour de la totequel pe detait autoteste o mute lice riou de dein coustes de crieres. Dà orc que tou partie sous sa dimension ital ication interne entendu strictement) ou référentielle (celle de la fiction), l'on obtient en effet la grille suivante :

Pour rudimentaire qu'elle soit, cette mise en tableau suffit à faire concevoir la diversité et l'ampleur des problèmes auxquels le terme d'autotextualité peut à la fois servir d'emblème et de commun dénominateur. On comprendra donc que les pages qui suivent ne visent qu'à esquisser les premières approches d'un autotexte particulier : la mise en abyme.

II. LE RÉSUMÉ AUTOTEXTUEL OU MISE EN ABYME

Conformément à la leçon de Gide que nous prenons ici au pied de la lettre, nous entendrons par ce vocable le redoublement spéculaire, « à l'échelle des personnages », du « sujet même » d'un récit 3. C'est dire que dans notre terminologie, le concept de mise en abyme désigne un énoncé sui generis dont la condition d'émergence est fixée par deux déterminations minimales : 1° sa capacité réflexive qui le voue à fonctionner sur deux niveaux : celui du récit où il continue de signifier comme tout autre énoncé; celui de la réflexion où il intervient comme élément d'une méta-signification permettant à l'histoire narrée de se prendre analogique-ment pour thème; 2° son caractère die crique du mla mese tique +. Dans cos condi. tions, rien n'empêche, on le voit, de considérer la mise en abyme comme une citation de contenu ou un résumé intratextuel. En tant qu'elle condense ou cite la matière d'un récit, elle constitue un énoncé qui réfère à un autre énoncé -- et donc un trait du code métalinguistique; en tant qu'elle est partie intégrante de la fiction qu'elle résume, elle se fait en elle l'instrument d'un retour et donne lieu, par conséquent, à une répétition interne. en'y a donc pas à s'étonner que la fonction narrative de toute mise en abyme se caractérise fondamentalement par un cumul des propriétés ordinaires de l'itération et de l'énoncé au second degré, à savoir l'aptitude de doter l'œuvre d'une structure forte, d'en mieux assurer la signifiance, de la faire dialoguer avec elle-même et de la pourvoir d'un appareil d'auto-interprétation.

On ne saurait pourtant en rester à ces généralités sous prétexte que ce mode d'intervention s'observe partout et toujours. Car s'il est vrai que la mise en abyme devrait cesser d'être elle-même pour en prescrire une autre, il ne l'est pas moins que la force d'impact et les effets secondaires de cette intervention varient selon le degré d'analogie entre énoncé réflexif et énoncé réfléchi d'une part (paramètre de sanction paradigmatique), selon la position de la mise en abyme dans la chaine narrative d'autre part (paramètre d'obédience syntagmatique).

III. COMPRESSION ET DILATATION SÉMANTIQUE

Si le premier paramètre influe de manière décisive sur le fonctionnement d la mise en abyme, c'est que le passage de l'histoire narrée à sa réflexion implique deux opérations distinctes du point de vue d'une logique des transformations une réduction (ou structuration par enchâssement); une élaboration du paradigme de référence (ou structuration par projection sur l'axe syntagmatique d'on « équivalent » métaphorique).

Admis le fait que cette dernière peut s'effectuer par analogie ou contraste plus ou moins nets, l'on reconnaîtra qu'entre la reproduction quasi mimétique et la libre transposition existe tout un éventail de possibilités dont chacune emporte une manière différente de faire le jeu du récit.

Ainsi, lorsque la mise en abyme se borne, par une manière d'homothétie. à reproduire la fiction à une autre échelle, elle ne se distingue en rien du morele réduit dont Lévi-Strauss analyse les vertus dans un chapitre célèbre de la Pensez sauvage. Simplifiant la complexité de l'original, la réplique fictionnelle convertit le temps en espace, transforme la successivité en contemporanéité et, par là même, accroît notre pouvoir de com-prendre. Aussi Gide n'avait-il pas tort de remarquer que « rien ne l'éclaire mieux [l'œuvre] et n'établit plus sûrement toutes les proportions de l'ensemble 5 ».

La question est néanmoins de savoir si elle n'acquiert pas ce pouvoir d'information à un prix plus considérable que la seule renonciation aux dimensions du modele. Pour peu qu'on la pose dans les termes de la théorie de la communication, l'on dira qu'une reproduction aussi scrupuleuse que possible a pour efiet d'amplifier massivement la redondance de l'œuvre. Or, le contenu d'information d'un message et sa redondance étant, comme on sait, en raison inverse l'un de l'autre, il s'en suit que la mise en abyme reproductrice, du seul fait qu'elle permet la fermeture et la codification maximales du récit, en diminue d'autant les virtuali-tés sémantiques. Une lecture isotope, n'est-ce pas là trop chèrement payer une mise en abyme? Quand cela serait, deux types de récits ne reculent pas devant la dépense : ceux qui visent coûte que coûte a l'univocité de leur message; ceux qui entendent s'affirmer comme récits et a cette fin exploitent la vérité qui veut que « vie » et répétition soient perçues comme contradictoires 6. En tant que second signe en effet, la mise en abyme ne met pas seulement en relief les intentions signi-fiantes du premier (le récit qui la comporte); elle manifeste qu'il (n') est lui aussi (qu') un signe et proclame tel n'importe quel trope — mais avec une puissance décuplée par sa taille : Je suis littérature, moi et le récit qui m'enchâsse.

Quant aux réflexions — de loin les plus nombreuses — qui ressentent la fidé-lité comme une entrave, elles gagneront, plutôt qu'au modèle réduit, à être com-parées aux figures que la psychanalyse freudienne appelle les processus primaires puisqu'elles procèdent d'une condensation et d'un déplacement qui ne sont pas sans rapport avec le travail du rêve. Résultat d'un transcodage qui la rend origi-nale, la mise en abyme se préoccupe moins cette fois de porter un coup décisif à l'illusion référentielle que de se muer en embrayeur d'isotopie(s) et de réaliser ainsi une pluralisation du sens. Grâce à elle, la redondance s'atténue; le récit devient informant et ouvert — et surtout il accepte après lui avoir imposé sa ver-sion que son analogon, en retour, lui surimpose la sienne.

De cette « réaction » sémantique, l'Ane d'or d'Apulée est un témoin idéal. Car comment le lirions-nous si nous ne disposions du « Conte d'Amour et de Psyché » des livres IV, V et VI? De la manière dont nous avons lu d'abord les livres I, II et III : comme une espèce de roman picaresque où le merveilleux et le scabreux tiennent leur part, mais jamais, convenons-en, comme un récit mystagogique. C'est justement qu'il incombe au récit second de complexifier cette première lecture en déclenchant une seconde isotopie (religieuse) qui non seulement pré-pare, à longue portée, l'épiphanie d'Isis du célèbre chapitre xI, mais aussi se super-pose à la première (celle de l'aventure) pour l'infléchir dans un sens initiatique. Sitôt contaminés par l'expérience parallèle de Psyché, les avatars de Lucius ne peuvent que se lire — se relire en ce qui concerne les Livres précédant la mise en abyme — comme autant d'épreuves d'un être promis, après un temps d'aliénation et d'errances, au salut dispensé par la Divinité maîtresse des métamorphoses. Sans l'intervention de la mise en abyme, le roman ne fût point parvenu à virer les événements qu'il narre au code de la rédemption.

C'est un ofice semblable qu'elle exerce dans l'Homme qui rit. Bien qu'il n'avoue sa dette qu'à l'égard de Shakespeare, ce roman de Hugo n'aurait-il pas celui d'Apulée dans son intertexte? Formant charnière entre les deux parties qu'il comporte, la représentation intitulée « Chaos Vaincu » se présente, à l'instar du conte de l'Ane d'or, comme un « interlude » structurel sans doute — mais aussi sémantique puisque le sens dont elle est porteuse reflue sur le début du récit, en prépare le dénouement, et confère à l'ensemble de l'œuvre une portée initiatique.

Si elle n'était trop longue pour être reproduite ici, la description de ce spectacle hors pair nous mettrait en présence d'une allégorie célébrant l'érection de 1'Hu-main au travers de la victoire remportée par la lumière sur les ténèbres, le triomphe de l'esprit sur la matière brute, la domination du chaos par les forces spiri-turelles. Aussi « l'œuvre dans l'œuvre » est-elle à nouveau ici ce qui invite à interpréter le destin du protagoniste comme une descente aux Enfers et une transmutation salvifique. Mais elle fait plus encore : liturgie cosmique célébrée en plein cœur du texte, elle étend son pouvoir d'irradiation à tout le roman qu'elle sacralise et détemporalise jusqu'à en faire une geste située in illo tempore.

Ajoutés aux considérations qui les précèdent, pareils exemples suffisent à nous avertir qu'à l'égard de leur dimension paradigmatique, les mises en abyme semblent pouvoir, comme les synecdoques, se départager en deux groupes : particularisantes (modèles réduits), elles compriment et restreignent la signification de la fiction; généralisantes (transpositions), elles font subir au contexte une expansion sémantique dont celui-ci n'eût pas été capable par lui-même. Rachetant leur infériorité de taille par leur pouvoir d'investir des sens, ces dernières nous placent en effet devant ce paradoxe : microcosmes de la fiction, elles se surim-posent, sémantiquement, au macrocosme qui les contient, le débordent et, d'une certaine manière, finissent par l'englober à son tour.

Telle émancipation n'est certes possible que compte tenu de certains choix génériques. Ainsi, il nous paraît révélateur que ce ne soit pas une nouvelle ou quelque doublure empreinte d'un trop fort schématisme qui assure la réflexion dans les deux œuvres brièvement évoquées ci-dessus, — mais un conte ou un mythe. Actualisable par tout un chacun, le conte se prête à transmettre une universelle leçon. Quant au mythe, fût-il attiré dans l'orbite de l'allégorie, il ne perd jamais tout à fait ses caractères originels : « symbole développé en forme de récit », il « donne à penser ®» et irréalise au profit d'un Signifié inépuisable la teneur de l'histoire.

IV. EFFETS DE DISTRIBUTION

Transversale à la première, l'autre variable commande le fonctionnement des mises en abyme au gré de leur placement sur l'axe des contiguités. Comment et à quelles fins narratives, c'est ce que nous tenterons de porter au jour apres avoir reconnu :

  1. qu'un texte peut intégrer une mise en abyme a) en la présentant une seule fois et « en bloc »; b) en la morcelant en sorte qu'elle alterne avec le récit qui l'enchâsse; c) en la soumettant à diverses occurrences;
  2. que les réflexions comprises sous a) permettent d'articuler plus nettement nomie générale du récit; que les autres le problème des incidences de la composante position elle sur l'éco-
  3. que ce problème se pose et se résout essentiellement en termes de temporalité narrative.

Pour que ce dernier point acquière son statut d'évidence, bornons-nous à marquer que toute « histoire dans l'histoire », en tant que réflexive, est nécessairement conduite à contester le déroulement chronologique en tant que segment narratif. Car comment s'y conformerait-elle tout à fait sans perdre ses prérogatives? Empe-chée de par ses dimensions de marcher au même rythme que le récit, la seule possibilité qu'elle ait de l'équivaloir est d'en contracter la durée et d'offrir en un espace restreint la matière de tout un livre. Or, telle contraction ne va pas, répé-tons-le, sans mettre en cause l'ordre chronologique lui-même : incapable de dire la même chose en même temps qu'elle, l'analogon de la fiction, en le disant ailleurs, le dit à contretemps et sabote par là même l'avancée successive du récit.

Demandons-nous toutefois si ce résultat n'est pas susceptible d'une élaboration plus précise. Pour être en mesure de qualifier la forme d'anachronie que représente toute mise en abyme, ne suffirait-il pas de prendre en considération la place occupée par la réduplication dans la chaîne narrative? Sans aucun doute. En bonne logique, l'on distinguera donc trois espèces de mises en abyme correspondant à trois modes de discordance entre les deux temps : la première, prospective réfléchit avant terme l'histoire à venir; la deuxième, rétrospective, réfléchit après coup l'histoire accomplie; la troisième, rétro-prospective, réfléchit l'histoire en découvrant les événements antérieurs et les événements postérieurs à son point d'ancrage dans le récit.

Illustrer chacune de ces mises en abyme par des exemples appropriés conduira certainement à les mieux mettre en lumière et, sans doute, à rendre compte du nombre plus ou moins élevé de leurs occurrences puisqu'un rapide sondage fait apparaître que l'implantation des redoublements spéculaires est faible au début, négligeable à la fin, mais très forte au milieu du récit.

1. La « boucle programmatique »

Pré-posée à l'ouverture de ce récit, la mise en abyme prospective « double » la fiction afin de la prendre de vitesse et de ne lui laisser pour avenir que son passé. Faire retour sur ce reflet antérieur et le soumettre à une catalyse, tenir le programme qui l'annonce et en détailler les matières, telle est la marge de manœuvre qui lui est consentie. Si celle-ci est étroite, c'est que le récit a d'emblée engagé son sort : en tolérant qu'un signe avant-coureur le dévoile tout entier, ne se condamnait-il pas à obéir à ses directives? Toutefois, il faut voir que cette fonction révélatrice et matricielle en emporte d'autres avec elle. Pour nous en tenir à la plus importante, rappelons qu'en exposant la fiction en raccourci, la réflexion rassemble des épisodes et des traits épars dont la perception quasi simultanée, au seuil du livre, n'est pas sans influer sur son mode de déchiffrement : averti d'un parcours dont il a une connaissance synthétique, le lecteur sait au-devant de quoi il va et peut sans hésitation imposer des scansions à son itinéraire, reconnaître des temps forts dans sa marche, rester maître de son avancée. Relevons en outre qu'en la programmant de manière aussi impérieuse, la mise en abyme liminaire prive la fiction de tout intérêt anecdotique — à moins qu'elle ne la charge au contraire de tension et n'exacerbe, par degrés, l'attente du lecteur.

Qu'elle y réussisse jusqu'à l'exaspération, il n'est pour s'en convaincre que de se rapporter au Zauberschloss de Tieck ou aux Dix Petits Negres d'Agatha Christie. Mais comme les ressorts de la nouvelle fantastique ou du roman policier ne sont pas ceux du roman, celui-ci, en général, veille à ce que les signes prémonitoires portent sur l'essentiel et rendent d'emblée possible une seconde lecture — mais en évitant qu'ils se puissent entendre de manière trop limpide. Dans la règle, le brouillage s'opère par recours à un lyrisme de circonstance, dédoublement de présages qui paraissent se neutraliser l'un l'autre, démenti explicite opposé à la venue du signe prophétique, commentaires en porte à faux de certains personnages, « bruit», enfin, réalisé par la compréhension des principaux intéressés. Toutefois, le début d'Une vie de Maupassant montre que la méprise n'est pas ici une gêne bien considérable pour le décodeur : le « bruit » a beau l'assourdir, il n'empêche nullement la communication de passer.

t 2. La « coda »

Si la mise en abyme inaugurale dit tout avant que la fiction n'ait véritablement pris son départ, la mise en abyme terminale n'a plus rien à dire hormis la répétition de ce qui est déjà su. Comment, dès lors, dissimuler qu'elle agit à retarde-ment? S'il lui est possible de masquer sa trop sensible redondance par une transposition maximale, encore lui faut-il se conformer au code du vraisemblable en vigueur jusqu'à elle. Lourde contrainte, qui n'autorise, semble-t-il, qu'une solution : « décoller » et universaliser le sens du récit. Recourra-t-elle, pour ce faire, au conte ou au mythe? L'un et l'autre seraient utilisables s'ils ne risquaient en leur qualité de récits de relancer la fiction. Au moment où celle-ci aspire au repos, il paraît plus opportun de pactiser thématiquement avec le symbole ou avec la musique quand le récit le permet. Alors que celle-ci confine à l'indicible et se prête d'elle-même aux fins suspensives 10, celui-là apparaît prédestiné à terminer sans conclure : existant sur le mode vertical, il possède la concentration dont le récit est en quête; faisant signe vers une profondeur insondable, il lui offre un point d'orgue; motivé et non arbitraire, il en couvre la faible motivation narrative.

Ainsi, dans un passage très significatif de Rome de Zola, c'est à une progressive catholicisation du sens que l'on assiste grâce à la description d'un tableau symbolique : l'exclue en larmes qui représente aux yeux du protagoniste « tour un symbole de son échec à Rome » ne lui renvoie-t-elle pas «l'image de tout l'effort inutile pour forcer la porte de la vérité, de tout l'abandon affreux où l'homme tombe, dès qu'il se heurte au mur qui barre l'inconnu? »

Le point d'interrogation suspensif, le lexique abstrait (généralisant ou indéter-minisant), l'article défini qui relaie l'adjectif possessif, le substantif générique qui se substitue au nom de personne, autant de preuves que la destinée singulière d'un être et d'un récit, dès qu'elle est prise dans l'ordre du symbole, ne peut qu'irradier et devenir l'index d'une signification universelle.

Notons d'ailleurs que cette généralisation sémantique se répète quelques pages plus loin où, relayant son personnage, c'est l'auteur associé aux lecteurs de son temps qui reconnaît cette fois dans l'image évocatrice une préfiguration de leur siècle avant d'y déceler, intemporelle, l'expression même du Siècle :

Il défaillait, il était débordé par une admiration croissante, à mesure qu'il pénétrait dans ce sujet si simple et si poignant. Est-ce que cela n'était pas d'un modernisme aigu? L'artiste avait prévu tout notre siècle douloureux, nos inquiétudes devant l'invisible, notre détresse de ne pouvoir franchir la porte du mystère, à jamais close. Et quel symbole éternel de la misère du monde, cette femme dont on ne voyait pas le visage et qui sanglotait éperdument, sans qu'on pût essuyer ses larmes! Un Botticelli inconnu, un Botticelli de cette qualité absent de tous les catalogues, quelle trouvaille 12!

Trouvaille au premier chef narrative, enthousiasme destiné à cautionner la description, paraphrase visant à réduire l'opacité du symbole, ce n'est pas tant ici ce qu'il faut mettre en évidence. Plus digne de remarque nous paraît être le fait que Zola se comporte comme s'il hésitait entre deux solutions : décrire une image symbolique et, par refus de l'expliciter, se priver d'une réflexion circonstanciée; transcrire les sens qu'elle ouvre et, de cette manière, l'indexer au récit. Or pareille hésitation ne manifeste-t-elle pas la difficulté qu'a tout récit de négocier convenablement une mise en abyme terminale? En paraphrasant le symbole, il l'affaiblit et retrouve l'écueil de la redondance; en s'abstenant de le traduire, il accepte d'être finalisé par lui et de se porter en direction de ce qui le dépasse. Mais se transcender de la sorte, n'est-ce pas avouer qu'auparavant, il n'était pas à la hauteur?

3. Le pivot

Quoi qu'il en soit de ce péril, les remarques qui précèdent ont fait apparaître avec assez d'évidence les défauts inhérents aux réflexions prospective et rétrospective pour nous mettre sur la voie de comprendre la prédilection avec laquelle le récit recourt à la mise en abyme rétro-prospective. Charnière entre un déjà et un pas encore, celle-ci non seulement combine les vecteurs temporels et les fonctions des réflexions précédentes; comme le graphique (p. 290) peut en donner une idée, elle possède une économie propre qui repose tout entière sur l'extrapolation.

En quoi réside l'intérêt d'un tel diagramme? En ce qu'il visualise les DES d'un raisonnement analogique qui peut s'exprimer comme suit: BC: AB: CD: DE. Or ce raisonnement n'est-il pas celui qu'effectue d'instinct tout lecteur du segment CD? Connaissant déjà AD et ignorant encore DE, n'est-il pas conduit à postuler à partir de la réflexion indubitable de AB par BC, celle, probable, de DE (= x) par CD? A partir de là, l'emplacement de la mise en abyme rétro-prospective s'explique de lui-même : obligée de conserver la balance entre le déjà de la garantie et le pas encore de la spéculation, celle-ci est prédestinée à occuper dans le récit une position non seulement intermédiaire, mais médiane.

Cette cooptation de la prophétie par le rappel et de l'induction par la déduction est illustrée de façon exemplaire par Heinrich von Ofterdingen. Si nous relisons le superbe récit de la découverte, par Heinrich, du livre qui récapitule et préfigure sa vie entière, nous constatons en effet que le roman-miniature articule trois temps au travers de sa trame événementielle : le présent ou plutôt le passé immédiat (l'ermite et le mineur côtoyant le protagoniste dans la grotte où il se trouve actuel-lement); le passé (l'Orientale, ses parents, etc.); l'avenir, réalisé ou non par le livre inachevé (Heinrich vainqueur d'un concours couronné comme poète, Hein-rich conversant avec l'Empereur, s'embarquant pour l'Orient, rencontrant Mathilde, guerroyant pour une noble cause, séjournant en Orient, se trouvant en compagnie de Klingsohr). Or les événements formant ici une suite ininterrom-pue, le personnage (et, par-dessus son épaule, le lecteur avec lui) peut aisément en induire qu'un livre où son passé et son présent sont consignés avec une telle exactitude peut aussi bien prophétiser.

Le désir de briser l'unité métonymique du récit n'explique pas à lui seul que la mise en abyme se pousse ainsi en position centrale. Pour convenir à merveille à la mise en place d'un échangeur de temps, le centre n'est-il pas l'endroit où une vue d'ensemble peut opportunément satisfaire le besoin d'intelligibilité du lec-teur? Le lieu où le revirement sémantique devient désirable? Sous la juridiction du contexte qui la précède, la réflexion rétro-prospective peut faire retour sur lui, lui surajouter son sens et agir la suite du texte, désormais sous sa juridiction the-matique. Présupposée et présupposante, objet et sujet d'interprétation, elle trouve en ce site la plate-forme qu'elle recherche pour faire pivoter la lecture.

Relevons qu'en dehors de ce jeu de bascule, cette posture intermédiaire autorise aussi bien le centrage structurel du récit. « Toute œuvre d'art, écrivait Flaubert, doit avoir un point, un sommet, faire pyramide, ou bien la lumière doit frapper sur un point de la boule. Or rien de tout cela dans la vie. Mais l'Art n'est pas dans la Nature ! Remarque profonde, à partir de laquelle il devient possible de comprendre que tout en visant à se donner un « sommet », certains récits reculent devant l'aveu qu'une trop rigoureuse symétrie ferait de leur artificialité et se montrent enclins à déporter légèrement leur mise en abyme sur la gauche ou sur la droite, à la section d'or, voire au-delà quand ils entendent se donner une fin dramatique 15 — à moins qu'ils ne se résolvent à la morceler, à la soumettre à diverses occurrences, ou à lui en ajouter d'autres.

S'il n'est pas de notre dessein d'entrer dans le détail de cas interprétables à la lumière des remarques qui précèdent, il nous paraît opportun de signaler que la mise en abyme répétée sert généralement à pourvoir la fiction d'un leitmotiv et/ou d'un dramomètre et qu'au rebours de la mise en abyme unique qui coupe en deux et par là même conteste un récit unitaire, les réflexions multipliées ou divisées, dans un récit voué à l'éparpillement, représentent un facteur d'unification dans la mesure où leurs morceaux métaphoriquement aimantés se rassemblent et compensent au niveau thématique la dispersion métonymique. De manière très générale, on peut donc conclure que toute mise en abyme inverse le fonctionnement qui l'utilise 16 : réagissant aux dispositions prises par le contexte, elle assure au récit une espèce d'auto-réglage.

V. ALLIANCES PRÉFÉRENTIELLES ET RAPPORT AUX GENRES

Pour valables qu'elles soient, ces analyses demeureraient incomplètes si elles ne portaient enfin sur les supports thématiques des mises en abyme. Que celles-ci ne puissent fonctionner sans le concours d'une représentation figurée, auditive ou verbale, il serait exagéré de le soutenir. Mais qu'elles n'atteignent leur plein régime qu'en souscrivant à une collaboration de ce type, les divers exemples que nous avons produits en portent un suffisant témoignage : peinture, pièce de théâ-tre, morceau de musique, roman, conte, nouvelle, tout se passe comme si la réflexion, pour prendre son essor, devait pactiser avec une réalité homogène à ce qu'elle reflète : une œuvre d'art.

Cette complicité structurelle s'explique de plusieurs manières.

Ce qu'il y a lieu d'abord de mettre en évidence, c'est que l'œuvre d'art réflexive est une représentation - et une représentation douée d'un grand pouvoir de cohésion interne. En tant que figurative, elle est bienvenue dans la mesure où toute mise en abyme vise, par analogie, à référer l'une à l'autre deux séries d'événe-ments; en vertu de l'unité qu'elle constitue, elle est quasi indispensable parce que seule à permettre à une réflexion rétro-prospective de remplir son rôle de charnière avec une relative aisance.

Reportons-nous à la figure de la page 290. Nous l'avons commentée, on s'en souvient, en disant que le lecteur attribuait une aptitude réflexive au segment CD à condition que celui-ci se révèle indissociable du segment BC. Or comment être sûr que BC et CD s'appartiennent? Le moyen infaillible de les conjoindre, de rendre leurs limites moins floues et de faciliter leur découpage n'est-il pas de les articuler tous deux sur une œuvre insécable?

On ne saurait méconnaître pourtant qu'il est d'autres motifs à prescrire le choix de telles représentations. Par exemple, l'on ne tiendra pas pour négligeable que l'œuvre d'art apporte au récit sa richesse polysémique, qu'elle objectivise l'action réfléchie et, surtout, qu'elle relève d'une temporalité propre qui annule ou en tout cas neutralise le temps de l'histoire : alors que le temps du récit se dépense pour elle, elle tient en suspens le temps narré et s'épargne de la sorte le devoir de réfléchir sa réflexion, la réflexion de sa réflexion, et ainsi de suite indéfi-niment.

Mais une autre remarque s'impose qui ne porte pas moins loin. Elle concerne la possibilité pour une œuvre d'art de fonctionner comme un embrayeur générique. Si cette virtualité est presque toujours réalisée, c'est que le rapport entre le genre littéraire de l'œuvre enchâssante et le genre littéraire (ou artistique) de l'œuvre enchâssée se trouve conditionné par les dimensions de l'une et de l'autre œuvre et que de ce simple fait, il résulte que la forme romanesque - pour ne parler que d'elle — ne peut sauf exception contenir un roman que sous les espèces d'un résumé ou d'extraits. C'est dire qu'à moins d'accepter cette contrainte ou de s'en jouer en se référant soit à lui-même, soit à un double virtuel qui ne sera jamais donné à lire au lecteur ", le roman est nécessairement conduit à se mettre en abyme dans une œuvre non romanesque et à se donner par là une structure bi-généri-que.

Cruciale pour la compréhension de l'alliance préférentielle mise en abyme-œuvre d'art, cette intrusion presque fatale de l'autre dans le même paraît rendre compte du sort variable qui affecte le procédé dans l'histoire de la littérature. N'est-ce pas son incompatibilité avec le dogme de la « pureté » des genres qui explique sa mise au rebut par le Classicisme? Ce que nous voudrions cependant montrer par quelques exemples, c'est que ses relations à telle poétique historique ne sont pas toujours franches et que l'articulation d'un genre sur un autre peut s'opérer de diverses manières.

Relisons dans cette perspective les Wahlverwandtschaften de Gœthe. Conçu d'abord comme nouvelle dans l'entourage des Wanderjahre, l'ouvrage a peu à peu conquis son autonomie et s'est développé en roman. Bien qu'il porte encore par endroits l'empreinte de sa forme initiale, celle-ci n'est guère perceptible et ne 'empêche nullement d'être un modèle du genre. Or cette exemplarité, tout porte paradoxalement à la mettre au crédit de la nouvelle insérée « Die wunderlichen Nachbarskinder ». Nouvelle-type ainsi qu'en témoignent ses caractères géné-riques, son sous-titre (« Novelle ») et une déclaration de Gœthe lui-même 18 cette dernière n'est pas exemplaire sans dessein : antithèse thématique, mais aussi structurelle du récit qui l'englobe, elle l'affirme roman en s'affirmant nouvelle et lui permet dialectiquement de mériter lui aussi son sous-titre : Die Wahlver-wandtschaften, « Ein Roman ».

Il s'en faut pourtant que toute œuvre enclose agisse comme repoussoir géné-rique. Lorsque les ressemblances s'estompent et que disparaît le fond commun qui accuse les particularités, la mise en valeur par opposition cède la place à la concertation et à l'échange. Ainsi, il est manifeste qu'en liant en faisceau ces structures épiques ou épico-lyriques que sont la légende hagiographique, la légende familiale, le conte de fées populaire, le conte de fées littéraire à base réaliste, le récit mélodramatique et l'idylle, le Rêve de Zola ne cherche pas à faire ressortir par contraste le genre romanesque du récit-cadre; ce qui l'intéresse au premier chef, c'est d'orchestrer ces sous-genres 19 et d'en tirer un profit structurel en se modelant sur eux. Le bénéfice de l'opération, semble-t-il, passe même l'espérance puisqu'en réintroduisant par ce biais le merveilleux et le lyrisme proscrits par l'esthétique naturaliste, le roman se trans-forme de manière assez profonde pour éprouver le besoin de démentir les apparences et d'afficher son titre de « roman ».

Toutefois, cette manière de contrebande générique ne doit pas faire oublier que l'embrayage peut aussi bien s'effectuer en accord avec une poétique déterminée, lui prêter main forte et la dépasser en épousant sa visée.

Pour s'en tenir à la poétique naturaliste, on sait par exemple que son allergie au lyrisme n'est que la contrepartie d'une conception de l'épique que l'idéal d' « objectivité » et d' « impersonnalité » rapproche du « genre » dramatique 20 et — c'est là une autre leçon des Rougon-Macquart — tout se passe comme s'il était nécessaire que des œuvres théâtrales fussent intégrées au roman pour que ce rapprochement pût se thématiser et se produire de façon satisfaisante.

Considérons les deux représentations en abyme dans la Curée. Ce qui frappe dans l'épisode très élaboré de Phèdre, c'est que le lien de conjonction-disjonction qui unit Renée à son double est homologue au rapport qui prévaut entre le roman zolien et la tragédie racinienne. A peine s'est-elle en effet identifiée à Phèdre que la protagoniste entrevoit déjà la distance qui l'en sépare et qui distingue littérairement les deux aventures :

Phèdre était du sang de Pasiphaé, et elle se demandait de quel sang elle pouvait être, elle, l'incestueuse des temps nouveaux. (..) Aurait-elle la force de s'empoisonner un jour? Comme son crime était mesquin et honteux à côté de l'epopée antique 21!

En outre, pendant la représentation du « poème des Amours du beau Narcisse et de la nymphe Echo » que le roman présente comme une anti-Phèdre (ou plutôt comme une Phèdre revue et corrigée par une société où la tragédie, selon le mot de Marx, ne peut plus faire retour que sous la forme de la farce), Zola revient sur la licence (poétique) de cette œuvre-miroir et interroge cette fois encore — mais ici sur le mode de la dérision - son rapport à l'art « classique » :

— Vous allez voir, murmura M. Hupel de la Noue; j'ai poussé peut-être un peu loin la licence poétique; mais je crois que l'audace m'a réussi... La nymphe Echo, voyant que Vénus est sans puissance sur le beau Narcisse, le conduit chez Plutus, dieu des richesses et des métaux précieux. Apres la tentation de la chair, la tentation de l'or. — C'est classique, répondit le sec M. Toutin-Laroche, avec un sourire aimable. Vous connaissez votre temps, monsieur le préfet 22.

On aura compris que dans les termes où elle se trouve posée par les deux représentations en abyme, la question du genre ne souffre qu'une réponse : écrire « une nouvelle Phèdre » à une époque où « la grande lyre a été brisée» et où des productions calquées sur la Belle Hélène donnent le change à la littérature n'est possible qu'à condition de ce pas céder aux facilités de la mode, de prendre conscience que le Naturalisme doit être au XIX siècle ce que le Classicisme a été au xvIIe 24 et d'infléchir l'exemple anachronique et irréalisable d'une tragédie assimilée à l' « épopée antique» dans le sens du seul genre conforme aux injonctions profondes des temps nouveaux 25: le roman, et plus précisément le roman dramatique que les deux œuvres mises en scène par la Curée sont justement destinées à rendre possible par contamination. Que la greffe ait pris ici encore au-delà de tout espérance, la preuve s'en trouve dans le fait que la « théâtralisation de l'épique» a mené tout droit... au Théâtre... naturaliste : Zola a tiré du roman un drame en cinq actes, Renée, qui a été joué en avril 1887 au théâtre du Vaudeville...

Il vaudrait la peine de se demander si la fortune que la mise en abyme a connue dans les années soixante s'explique par le souci du premier Nouveau Roman de se doter d'une structure bi- ou multigénérique. A cet égard, l'exemple de l'Emploi trouver une issue au labyrinthe qui l'oppresse, Revel achète un roman policier dont la lecture et la re-lecture lui donnent des points de repère toujours plus nom-breux. Mais à mesure que sa lucidité s'accroît, il comprend que ce guide n'exprime qu'imparfaitement son experience, qu'il contientlacuneseterreurset que le moment est venu, pour lui, de s'effacer devant un autre livre plus vrai et plus compréhensif qui, d'ailleurs, l'accomplira : le sien. L' « emploi du temps », dès lors, trouve sa pleine justification.

La leçon est claire et généralisable : « le Meurtre de Bleston » — et avec lui les œuvres d'art imaginaires — sont à Revel ce que la Recherche a été à Butor et ce que l'Emploi du temps doit être à son lecteur : l'occasion d'une prise de conscience appelée à s'approfondir et à se poursuivre en toute indépendance.

Or cette relève peut aisément se traduire en termes génériques. Pour nous en tenir au mouvement d'émancipation de l'Emploi du temps a l'égard du « Meurtre de Bleston » — mouvement d'émancipation préparé et motivé par l'enseignement du romancier vicaire Burton -, on observera qu'à l'instar de Revel, le roman commence par mimer le roman policier et reprendre à son compte toutes ses propriétés génériques. Ainsi, ce n'est pas un hasard si T. Todorov peut écrire dans sa « Typologie du roman policier » : « Il y a déjà eu plusieurs essais de préciser les règles de ce genre (...); mais la meilleure caractéristique globale nous semble celle qu'en donne Michel Butor dans son roman l'Emploi du temps. Georges Burton, auteur de nombreux romans policiers, explique au narrateur que « tout roman policier est bâti sur deux meurtres dont le premier, commis par l'assassin, n'est que l'occasion du second dans lequel il est la victime du meurtrier pur et impunissable, du détective », et que « le récit... superpose deux séries temporelles : les jours de l'enquête qui commencent au crime, et les jours du drame qui mènent à lui 26 ».

Ce récit qui tout à la fois respecte et prend à revers la chronologie, c'est celui même que nous propose l'Emploi du temps : « Ainsi moi-même », écrit Jacques pour qu'aucun doute ne subsiste, « c'est tout en continuant à raconter l'automnil que je suis parvenu à ce deuxième dimanche du mois de mai 27 ... ». Mais ce qu'il Y a lieu surtout de noter, c'est qu'au moment où Revel relate la théorie de Bur-ton, sa pratique l'a dépassée d'un degré puisque son propre récit, plus comprexe, comporte d'ores et déjà trois séries temporelles...

Remarquons d'ailleurs que ce ne sont pas là les seules manifestations du dépassement car s'il est vrai que le roman policier programme le roman en lui léguant sa double structure temporelle, le code avant tout herméneutique (question-réponse) qui en dérive ainsi qu'une thématique obligée, il est non moins incontestable que l'Emploi du temps prend des distances et des libertés de plus en plus grandes avec les lois génériques du livre qu'il comprend : à la rhétorique de l'interrogation qui régit ses premières parties succède un style de l'assertion; l'énigme policière n'est qu'à demi résolue; le retour à l'ordre est différé; l'amour joue un certain rôle dans l'histoire; le criminel ne fait qu'un avec le détective; le cas individuel revêt une portée générale (allégorisation du mythe d'(Edipe), l'actualisation d'une fable bien connue du lecteur empêche le roman d'être finalisé par l'imprévu de la découverte; — et ce sont les mystères « secondaires » — autrement dit la suspicion généralisée et la révélation progressive d'un monde autre qu'il ne se donnait à voir — qui, finalement, relèguent dans l'ombre l'énigme « principale ».

Une telle insistance à virer le roman policier au roman ne serait pas de mise, on le devine, si la transgression ne ressortissait à la logique même de l'entreprise littéraire. N'est-ce pas elle, en dernière instance, qui distingue la littérature de l'infra- ou de la paralittérature? Comme l'a fortement marqué T. Todorov, le chef-d'œuvre de la littérature de masse est celui qui coincide avec son genre et se propose comme pur stéréotype au consommateur; tout à l'opposé, le grand livre transforme « l'horizon d'attente» du lecteur et, par son avènement, « établit l'existence de deux genres, la réalité de deux normes : celle du genre qu'il trans-gresse, qui dominait la littérature précédente, et celle du genre qu'il crée ». C'est dire qu'envisagées sous cet éclairage, les raisons pour lesquelles l'Emploi du temps a préféré mettre en abyme un roman policier plutôt que tout autre texte s'expliquent d'elles-mêmes : dès lors qu'il entendait thématiser la littérature comme dépassement, le choix d'un genre statique et parfaitement codifé s'imposait dans la mesure où il ferait saillir avec une force d'autant plus grande l'essence subversive et inauguratrice de l'œuvre artistique.

Nul besoin par conséquent de prolonger ces analyses ni d'envisager le problème similaire de la transposition d'un art dans un autre pour se convaincre que la mise en abyme, pour la poétique, est une structure privilégiée : de par les rapports qu'elle noue avec l'intertextualité d'une part et la théorie des genres d'autre part, elle apparaît au cœur de ce champ transtextuel que G. Genette, avec quelques autres, s'applique méthodiquement à défricher.


  1. Cf. Claude Simon (colloque de Cerisy dirigé par Jean Ricardou), Paris, Union générale d'