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Sellars『科学と形而上学:カント的主題の変奏』メモ

セラーズの科学的実在論には不明瞭な点が多い。これを認識論的なこととして解釈すれば私の瑕疵であるということになるし、存在論的なこととして解釈すればセラーズが悪いということになるだろう。とくに数学的真理。セラーズの自然主義的カント主義において数学的命題の真理条件は、主張可能性条件(S-assertablility)条件(証明可能性条件)として与えられる。と当時に、Sellars は SM において数学における公理系の多元性についても述べている。

算術においては「より適切な(more adequate)」公理系の連鎖(series)に終わりはない。一方で、事実的命題の場合、私たちは世界に関するその真理(the truth)という理想につきまとわれている。 (SM, chap. V §55; Sellars’s emphasis)

ここでは、算術(arithmetric)と事実的命題(factual propositions)の実在性が対比されている。事実的命題は、いわゆる「the」統制的理念(パース的=極限的真理)としての科学的イメージを指向する命題群である。反対に、算術における公理系は、より適切な公理が存在するものであり、一元的な統制的理念に回収されないものとして記述されるものである(ように思われる)。

これは何を意味しているのだろうか。別の箇所では、数学と物理学の関係について以下のように述べている。

より深刻な反論は次のようなものである。つまり、ミクロ物理学の理論における厳密な意味での単称言明は、巨視的力学の質点や瞬間的出来事が理想的対象であるのと同じ意味において、「理想的対象」に関するものになるであろうという反論だ。しかし、質点の場合とは異なり、それらが理想化されたものとなりうるような非理想的な対応物は存在しないように思われる。したがって、時空連続体の数学が極めて巧みに操作する「理想的対象」に対して「道具主義的」な見方をとる者は、科学的実在論への道が開かれたと思われた矢先に、再び道具主義へと引き戻されることになるようだろう。この反論は、ミクロ物理学の理論における概念構造に関する深刻な問題を提起する。これらの問題は非常に複雑であり、私はそれらを直視ながら歩くことしかできない。(SM, chap. V §93)

第二章において、私は理想的(idealizing)理論と拡張的(ampliative)理論とを区別した。ミクロ物理学は拡張的理論である。しかし、それは同時に——本質的に——理想的理論でもありうるのだろうか? つまり、それは本質的に実数論と連続性の構造を伴うものなのだろうか? もしくは、ニュートンやアインシュタインの理想化されたマクロ力学に対して有限差分の力学が立つような関係として、解析学のあらゆる資源を利用する枠組みに対して立つような「有限主義的(finitist)」なミクロ理論が、原理的に定式化され得ると考えられるだろうか。この点に関して何か有益なことが言えればよいのだが、私に言えるのは、そのようなミクロ物理学の可能性は科学的実在論の不可避な含意であるように思われるということだけである。これが「有限主義」の「超越論的」な演繹に見えるのであれば、この問題が経験的なものではないと考えているのは、私一人ではないと弁明するほかない。 (SM, chap. V §94)

いまいちはっきりしない。有限主義的なミクロ物理学もありうるし、連続的なミクロ物理学もありうる、と言っているようにしか読めない。

物理学と(プラトン的)数学の関係は、不可欠性論証が有名である。単純なバージョンの不可欠性論証が言っているのは、科学的説明(傍点)が現在上手く行っている以上、その科学を支えている数学的命題の真理性は正当化されているということである(科学がこんなにうまく行ってるのに、その科学を支えている数学的命題を虚偽として考えるのは気が狂っている!)。不可欠性論証はセラーズにも当てはまるのだろうか? そもそも科学的実在論(scientia mensura)を取っている以上、正当化は要らないというように考えているのだろうか。

【弁明】なぜ mechanical interpretability を内部機序解釈可能性と訳すべきではないか

この記事を書くかどうかにはじゃっかんの躊躇があるのだが、とりあえずはてなブログの記事として提出しておけば、いちおうは批判可能な形になると思い公開することにした。というわけで、この記事は弁明の記事である。たいへん申し訳ございませんでした。もし納得が行かない点があれば、自由に本記事を引用してボコボコにしてくださって構いません。

弁明

mechanical interpretability(MI)とは、計算言語学・自然言語処理における概念であり、たとえば大規模言語モデルの内部パラメータを人間にとって理解可能な形でデコードするような研究を指す。問題はこの mechanical interpretability という英熟語の訳である。

mechanical interpretabilityにおける mechanical は、おそらくは mechanism(機序)という語の形容詞形である。それゆえ、「メカニズム的解釈可能性」や「機序的解釈可能性」であれば、一応は原義に沿った形での訳となるであろう。

しかしここで訳の妥当性を考えるにあたって重要なのは、じっさいに MI がどのような 意味論的前提 を取っているかということである。たとえば、有名な「王+女性=女王+男性」という Mikolov et al. (2017) の語埋め込み空間の研究*1や次元圧縮手法による研究、スパース・オートエンコーダによって解釈可能な形で空間を析出させる研究、線形表象仮説(非ユークリッド空間でも可)を見てみよう。これらの研究において前提されているのは、世界と内部空間との同型性である。たとえば、概念カテゴリの階層が埋め込み空間における線形代数的な構造に反映されているのだとしよう。このとき、概念カテゴリの階層の真偽をグラウンディングしているのは、他ならぬ世界側におけるカテゴリ構造のあり方である。たとえば、猫ベクトルが哺乳類ベクトルに直交するという埋め込み空間の構造が真である(もしくはaccurateである)のは、世界側において猫が哺乳類に含まれているからである。世界側の構造が適当であり、何でもありだったら、そもそも解釈可能性という研究が成り立たないであろう。つまり、世界と表象側の同型という意味論的前提がmachanical interpretability研究の前提にあるのだ*2

一般に、大規模言語モデルにおける表象という概念については、内在的(推論的)側面と外在的(意味論的)側面に分けることができる*3。基本的に MI の研究は、意味論的側面を前提としているように思われる。たとえば「王+女性=女王+男性」は、明らかに意味論的・外在主義的な立場を示している。この平行四辺形が埋め込み空間に現れることの凄さそれじたいは、頭の中だけに依存しているわけではないだろう。

それゆえ、mechanical interpretabilityを「内部機序解釈可能性」と訳してしまうと、上に述べたような MI という研究プログラムの意味論的外在主義的側面が見えにくくなってしまうのだ。Cappelen (2026) も、計算言語学・自然言語処理研究における内在主義的な傾向を指摘している*4。Cappelen が言う通り、この傾向は社会学的要因によるものかもしれない。しかしその要因は、その研究プログラムが内在的であるかどうかを定めるものではない。

最後に展望を述べたいと思う。じっさいには、「mechanical interpretability研究が世界と埋め込み空間の間の同型性を証明した」というときに意味されているのは、世界がそもそも概念化されているというヘーゲル的な立場の正当化ではないかと考える(物理主義的・素朴実在論的な研究プログラムの伝統に反して)。なぜ原子や分子の塊でしかない世界と「王+女性=女王+男性」が同型である、というようなことがありうるのか? この問いに答えるために必要なのは、近視眼的ではない哲学的な探究であると言えるだろう。 

*1:Mikolov, T., Chen, K., Corrado, G., & Dean, J. (2013年). Efficient Estimation of Word Representations in Vector Space (版 3). arXiv. https://doi.org/10.48550/ARXIV.1301.3781

*2:たとえば、科学的モデルの表象的解釈については次の前半部を参照:Nguyen, J., & Frigg, R. (2022年). Scientific representation. Cambridge University Press. もしかすれば、本書の主張のようにMIを推論主義的アプローチに移行することも可能かもしれない。

*3:Søgaard, A. (2025年). Do Language Models Have Semantics? On the Five Standard Positions. W. Che, J. Nabende, E. Shutova, & M. T. Pilehvar (編), Proceedings of the 63rd Annual Meeting of the Association for Computational Linguistics (Volume 1: Long Papers) (ページ 25910–25922). Association for Computational Linguistics. https://doi.org/10.18653/v1/2025.acl-long.1258

*4:Cappelen, Herman & Dever, Josh (forthcoming). A Hyper-Externalist Manifesto for LLMs. In Herman Cappelen & Rachel Sterken, Communicating with AI: Philosophical Perspectives. Oxford: Oxford University Press. しかし驚くべきなのは、Cappelen自身が MI を内在主義的であると誤認していることだ。本記事で述べた通り、MIは内在主義的前提を共有していない。

英語で論文を書くことが英語帝国主義であるという主張について

しばしば「英語で論文を書くことは英語帝国主義である」という主張がある。自国語で論文を書かないことが認識的多様性を損なう(周辺的不正義を助長する)という主張である。

しかし私はこの主張は仮言的であると考える。つまり、「言語に周辺的な存在論が含まれるかいなか」で答えは変わってくるということである。

  1. 「言語に周辺的な存在論が含まれる」場合。英語で論文を書くことが周辺的不正義の助長に繋がることは必然的であるように思われる。なぜなら、言語に存在論が含まれている場合、自国語から英語への翻訳の過程や読みの過程において、その言語独自の認識論や存在論が失われることがあるからだ。

これは言語相対主義的な主張である。つまり、1. の主張の妥当性は、言語相対主義の妥当性によって変化する。現在において言語相対主義が劣勢であることを考えると、この主張の妥当性は弱いように考えられる。

  1. 「言語に周辺的な存在論が含まれない」場合。言語間において(デイヴィドソン的な意味において)翻訳が可能であり、論旨の主張のうちにおいて言語独自の認識論・存在論が含まれない場合には、むしろ英語で論文を出版しない方が言語的不正義を助長すると思われる。なぜなら、一般に英語以外の論文は読まれることがないからである。英語以外の論文が読まれないということは、その文献の潜在的な引用可能性を減らすことになる。そしてそのことは、英語以外の言語において書かれた論文の可用性を減らし、英語圏以外の周辺的文化や地域の構造的な軽視、つまり周辺的不正義を助長することに繋がるだろう。

したがって、私は基本的には 2. を支持する。日本人が国際的なジャーナルにおいて英語論文を出版することは、英語帝国主義的でもなく、周辺的不正義を助長もしない。むしろ将来的には、日本人の哲学者の国際的なプレゼンスを高めることに繋がり、それは翻って西洋中心主義的な哲学において、認識的多様性を高めることや周辺的不正義を抑制することに繋がるだろう。

ここで得られた主張からの傍系として、機械翻訳の利用の正当化が挙げられる。翻訳を重視する人文系において、機械翻訳はしばしば敵視されやすい。しかしながら、じっさいに多言語に習熟することが(記述的な意味において)難しい非英語話者にとって、英語による論文の出版に寄与するのは明らかに機械翻訳である。酷い翻訳もたしかに存在するだろう。しかしそうであったとしても、機械翻訳それじたいが悪いということにはならない。人間は機械翻訳の出力の妥当性を検証することができるからだ。

おわりに

「英語で論文を書くことが英語帝国主義である」という主張は一見すれば妥当だが、じっさいのところ妥当とは言えないことを示した。師弟制度や単著出版が基本の人文系では、日本語しか見ていないケースが多いように思われる。しかしその認識論的に正当化されていない保守的・慣習的な文化が、言語的不正義を起因する可能性がある。さらに、人口減により日本語がオワコンになりつつあるなかで、日本語だけで論文を書いていると、ますます人文系に国がお金を回す意味が無くなって、自らの首を締めることになると思われる。

哲学の大学院生にはWikipedia記事を翻訳する道徳的義務がある

主張は表題の通りである。

論理は非常に単純だ。Littmann (2014) によれば、公に向けて哲学を書くことは道徳的義務であるからである。それに加えて言語的不正義に関する理由もある。大規模言語モデルがウェブ上の言語資源を反映しているのだとすれば、言語的不正義を抑制するために、準専門家である人文系の大学院生が正しい日本語訳を行うことは道徳的義務である。Claude Opus に正しい訳を出力させるためには、それに食わせるための規範的な日本語訳をウェブ上に置く必要がある。それが Wikipedia 日本語版 である。

というわけで、哲学の院生には日本語のウィキペディアを(主に英語の記事から)訳してほしい。Portal:哲学 - Wikipedia には、訳されることが望まれている記事が載っているので、それらを訳すことができればよいと思う。とくに心の哲学や科学の哲学、言語の哲学の記事は、日本語の文献を引いて作ったというような低品質の記事が多いので、きちんとしている人が訳してほしいと思う。このようなことも哲学の立派なアウトリーチ活動の一つであるだろう。

Reference

  • Littmann, Greg (2014). Writing Philosophy for the Public is a Moral Obligation. Essays in Philosophy 15 (1):103-116.
  • Helm, P., Bella, G., Koch, G., & Giunchiglia, F. (2024年). Diversity and language technology: How language modeling bias causes epistemic injustice. Ethics and Information Technology, 26(1), 8. https://doi.org/10.1007/s10676-023-09742-6
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