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真理の整合説と感覚データについて w/シノハラさん

シノハラさん (id:sakstyle) と真理の整合説について話していた。 以下はその議論の写しである(転載の許諾を頂いた)。

あとで見返すため、また我々の外部に穴を開けるために、本ブログの記事として立項する。 この記事を読まれた方で、なにか思うことがある方はコメントをお願いいたします。


愛楊葉児 真理の整合説に対する反論で、ある信念に対して整合する信念体系が複数存在しうるというものがあります。これは言語的な命題に限ればそうだとは思うのですが、感覚的なマルチモーダリティを考慮すれば真理に漸近するのではないかとも思います。マルチモーダリティは真理の整合説に繰り込むことができないということなんでしょうか。

シノハラ(以下、同様に敬称略) 分析哲学では、信念とか真理とかは命題の形をしてるものなので。 その上で、マルチモーダリティに話を拡張できるのか否かっていう議論があるのかどうかは、詳しくないのでよく分かりません。

シノハラ そもそも、命題が真になるとはどういうことかという問題があって、それに対する解決策として、対応説や整合説があるので、命題でなくしてしまえば、というのは問題に対して適切ではないような気がしました。

シノハラ あと、マルチモーダリティ考慮することが必ずしも真理に近づくとは限らないのではないか、とも。例えば地震は何故起きるのかとか。

愛楊葉児 紛らわしい表現をしてしまいすみません。ここで「言語的な命題」と書いたのは、単に命題が言語的に表現されることを強調するためでありほかの在り方を指したものではありません。 たとえば、網膜に赤い光が入ってきたときにそれを「トマトは赤である」という主張に寄与するという形で、マルチモーダリティが整合説にも入ってくるのかなと考えたのですが、論理実証主義みたいな話になってきますね。感覚与件の議論に着地しそうな気もします。もし真理の整合説を取るならば、人間だけではなく言語モデルも真理を述べることができるということになりますよね(実際現在のTransformerベースのモデルは局所的合理性しかないから、記号主義的システムのほうが整合説には向いているように思えますが)。結局真理の整合説は人間でも上手くいかないから取られていないわけですけど、感覚与件という補助線を引けばなにか見えてくるのかなと思っていました。

愛楊葉児 これは科学的(地学的)真理にはマルチモーダリティが不必要ということですか? 私は実験的証拠とかが関わってくると思っていたので少し考えただけでは分かりませんでした。

シノハラ トマトが赤い色をしていて、甘酸っぱい味がして、表面がすべすべしていることは、マルチモーダルですが、「トマトは赤い色をしていて、甘酸っぱい味がして、表面がすべすべしている。」という命題はマルチモーダルじゃないですよね? 命題には色も味も手触りもないので。 我々が受け取る入力信号はマルチモーダルですが、いわばそれに対する出力とでもいうべき命題の方はマルチモーダルではないわけです。 マルチモーダリティを考慮する、という時、どの段階の話をしているかよく分からないのですが、入力がマルチモーダルですよね、という意味なら、それはそうだけど、そのことで「信念体系が複数存在しうる」ことへの再反論にはならない(同じ入力に対して整合しうる出力が複数存在するという話なのでそもそも織り込み済み)。 出力もマルチモーダルであるという話なら、確かに整合しうる出力は絞り込めるかもしれないけど、それでいいのか、というのは気がかりです。 感覚与件というのも入力側の話で、入力信号の元となる知覚対象は、外界にある事物そのものなのか否かという話で、事物そのものは我々には知覚できないのであり、我々が知覚してるのは感覚与件だ、という話です。

愛楊葉児 「同じ入力に対して整合しうる出力が複数存在するという話なのでそもそも織り込み済み」というのが良く分かりません。真理の整合説というのは、ある命題 P に対して、信念のネットワークを持つ主体が持つ信念の集合 Q, R, ... について論理的に矛盾しないというものであって、つまり P が真である根拠を Q, R, ... に求めているのだと理解しています。この Q, R, ... は命題ですが、たとえば赤という色ベクトル v が虹彩に与えられた際に、それを「時刻 t において主体 s にベクトル w (v \neq w) が与えられた」という命題は偽になるはずですが、その根拠は他の Q, R, ... ではなくて、現に感覚的な色ベクトルであるはずです。入力の感覚与件に対応する出力となる命題が複数存在するというのは、真理の整合説に織り込み済みなのでしょうか? むしろどちらかといえばグルーのパラドクスとかそちらの問題かと思いました。

シノハラ 真理の整合説の立場をとるのであれば、その命題の真偽を決めるのも他の諸命題ということになるはずです。 例えば「時刻tにおいて主体sの前にはトマトがある」「時刻tにおいて主体Sがいる環境の光学的な条件は何某である」「主体Sの視覚能力は正常である」「トマトの表面を反射した光は、適切な光学的な条件の下で、正常な視覚能力を有する主体に対して向かった場合、その主体において色ベクトルvとして与えられる」といった諸命題です。

シノハラ ところで、真理の理論に詳しくないのでよく知らないのですが、真理の整合説って「取られてない」説なんでしょうか。哲学においてありがちなことですがまだ決着のついてない議論であって、全面的に認められてはいないけれど、全く見込がなくて却下されているわけでもないんじゃないでしょうか。

愛楊葉児 真理の整合説を取る限りはそのようになると思います。しかし感覚的根拠を命題に押し寄せるというのは、主体が痛みを感じている際に、主体が「私を痛みを感じている」という信念を持っていると想定することくらい馬鹿らしいのではないのでしょうか。主体は信念を持っているのではなくて現に痛みを感じているのであり、命題であれ文であれ言語的翻訳をたどる必要がないと思われます(痛みを感じるからと言って、主体が「私は痛みを持っている」という信念を持つとは限らない)。あくまで真理の整合説は真理の認識論と呼ばれるカテゴリーの内の一つであり、形而上学的な存在を措定せずに真理論の構築を試みるものです。挙げて頂いた例に「トマトの表面を反射した光は、適切な光学的な条件の下で、正常な視覚能力を有する主体に対して向かった場合、その主体において色ベクトルvとして与えられる」というものがありますが、もしこれが完全な化学的・物理学的知識に関する命題であれば、中学生は適切な信念ネットワークを作れないということになりませんか。いかなるプリミティブな事例に対しても、それらの命題群を非一般的な命題とすることで、究極的には高度な科学的知識を主体が持っていなければ、真理に到達しないようにすることは可能であるように思われます。真理の整合説はあくまで認識主体の内の信念群に関するものですが、前述のような命題を作ることができない主体にとっても、「眼の前に赤いトマトがある」と「眼の前に青いトマトがある」のどちらが「真」であるかを知ることができるはずです。これは、信念体系上の命題ではなく感覚的な情報のパターン認識によるものであって、つまり青の色ベクトルと「青い」の言語的ベクトルが埋め込み空間上で近いとかそういった機序によるものではないでしょうか。すぐに真理の整合説を取る限りは、無限背進に陥ることは容易に予想されます。

愛楊葉児 わたしは『論理哲学入門』と現代哲学のキーコンセプト『真理』しか読んだことがなく、後者では整合説は倫理学者には受けがよいが、見込みがあるのはデフレ主義と多元主義だけであると書かれていたので、著者に従うと「取られていない」という表現が出てくるのだと思います。しかし私はなにもゼロイチの話をしておらず、原理主義者でもないので、多元主義のように良いところをくっつけたり改良したりすればよいと思っています。ただ、理論の人気度というのは事実あるのではないでしょうか。たとえば PhilArchive の哲学者へのアンケート記事とかありますよね。理論の人気度によって、人気のある理論をある程度信頼するというのは、徳認識論的に擁護されそうな気もしますが。

シノハラ 真理をどのように知るか、また、得られた信念が正当化されているかという点においては、全く言われている通りだと思います。 感覚を通じて知ることができるし、真理を知るために必ずしも他の知識を全て有している必要はないです。 でも、それと真理とは何か、ある命題はどのように真になるかは別の問題だと思います。

シノハラ この話題、ちょっと目的がよく分からなくなってきたので、いったんリセットしてもらってもいいですか。

愛楊葉児 別の問題ではありません。真理に意味を与えるのが真理論であり、命題が真となる条件は真理論に相対的です。ここで私が述べているのは、真理の整合説における命題のより掛かることのできる根拠を感覚的データへ拡張することによって、認識主体によって命題の構成可能性が異なるという脆弱な部分を締め出すことが可能なのではないかということです。命題の集合だけを考慮する真理の整合説はどこまでも言語観念論的です。私が述べている拡張版では、真理の認識論にありながらも、真理の対応説のような言語外との関係を持ちうるという意味で倹約的かつ前進的です。

愛楊葉児 主張は次のようです。真理の整合説は命題間の関係しか取らないために言語観念論的であり、それゆえある命題に適合しうる信念体系の多意性が生じる。しかし、ある命題が真となるために適合しなければならない何かに命題だけではなく感覚的データも認めることによって、その信念体系の多意性を減じることが可能になる。このようなことです。これは認識説の範疇に収まることです。なぜならば、認識主体の頭の中を調べたり外部的に観察したりすることによってある主体がそれを持つ(受容している)と分かるという点において、信念も感覚的データも変わりがないからです。これは真理の対応説よりも軽いという点で倹約的であるし、かつ以上に述べたような真理の整合説の短点を回避できます。

シノハラ なるほど、だいぶ分かりやすくなりました。 何となく何を言いたいのかは分かってきました。 その上で、その主張がうまくいくかどうかの目算は僕には立てられないです が、しかしやはり気になったのは、その方法で多意性が減じられるのかどうか、というところです。なんかあんまりピンとこないですね。 (例えば天動説と地動説はある程度まではどちらも整合的な体系ですけど、感覚データを加えたところで、天動説が不整合になることはないのでは、とか) 多意性が生じる理由を言語のみに依拠してるから、と言われてますが、僕はこれは反実在論が背景にあるからじゃないかと思ってます。

愛楊葉児 整合説が反実在論と親和性が高いということは前提としてあります。天動説と地動説がどちらもそれぞれの体系において整合的であるのは、観察データと整合的な体系を複数作れるという自然科学的な理由であって、それは信念に特有の問題ではなく、実在論でも問題になることではないでしょうか(実在論において天動説/地動説の真偽がどうなるのかを私は地学に疎く知りません)。感覚データを加えることで享受できるのは、先にも述べた通り「このリンゴは赤い/青い」のいずれかが真/偽であるというようなプリミティブな範囲に関するものです。すべての命題が感覚データによって正当化されるとは言っていません。

シノハラ 実在論から真理の対応説とるなら一意に定まるでしょう(天文学の問題でなく哲学の問題)。 自然科学的な理由であれなんであれ、整合的な体系が複数作れた場合に、そのどちらが正しいか、さらに踏み込んで説明できるのが実在論ならびに対応説の特徴で、そうでないのが反実在論ならびに整合説でしょう。 「リンゴは赤い」文の話については話題がループしそうなので、詳しくは繰り返しませんが、そこはやっぱりあんまりピンとこないです。 いや、それはそうかもね、とは思うんですが、整合説の改良としてどれくらいクリティカルなものか、あるいはかなりトリビアルなものなのではないか、とか、そこらへんが測りかねてるところです。 何となく、議論が平行線に達した気配がするので、いったんこの話はクローズしてしまっていいかなと思うのですが、どうです?

愛楊葉児 対応説を取るなら天動説に関するT双条件文を作れるはずですが、これは実際どのようになるのでしょうか。たとえば「『宇宙は地球の周りを回っている』は真 iff 宇宙は地球の周りを回っている」とかでしょうか。しかし地動説/天動説の違いというのは単に取る座標系の問題であって、完全に天文学の問題です。哲学の入りうる余地は全くありません。宗教的言説を考慮せずに述べると、地動説が取られているのはポパー的な理論的美徳の要請によるものであって、哲学の問題ではありません。これは二次方程式の複素解が常に二つあるのが数学ではなく哲学の問題であるというくらいおかしな話だと思います。また、対応説を取っても以上の双条件文が一意になるとは思えません。対応説で対応すべき文ではなく、どちらかといえば超主張可能性とかそちらで対応すべきように思えます。「『座標系Σにおいて、宇宙は地球の周りを回っている』は真 iff 座標系Σにおいて、宇宙は地球の周りを回っている」とかであればよい気もしますが、上手くいくかは良く分かりません。 「リンゴは赤い」についてどの点で自明であるかもしれないと思われたのかは良く分かりませんが、対応説を認識説の範囲でなんとかするというデフレ主義的な目的意識が伝わらないのは残念に思います。こちらはクローズしても大丈夫ですが、いずれまた再発するとは思います。