はじめに
応用哲学会 第 16 回 年次研究大会のオンライン大会に参加した。
本項では、発表番号 L1 の山田圭一氏による「ChatGPT とウィトゲンシュタイン―言葉の意味を理解するとはどういうことか?―」に関連して考えたことを述べたいと思う。
予稿集は次のリンクからご覧になれます。
ライオンとChatGPTを類比的に捉えることは妥当なのか
まずもって、山田が展開する問いは「ChatGPT が記号の意味を理解して発話しているとわれわれが理解できるのか」という問いであり、「ChatGPT が記号の意味を理解しうるのか」という問いではないということを確認しておく必要がある(発表原稿 注12)。
山田は『哲学探究』の以下の命題群から、後期 Wittgenstein は我々が ChatGPT のことばを理解できないと言うだろうと帰結する。
もしもライオンが話すことができたとしても、われわれは彼の言うことを理解できないであろう。(『哲学探究』II 223)
共有された人間の振舞い方こそが、われわれが見知らぬ言語を解釈するための座標系なのである。(『哲学探究』206)
これは、「発話主体の〈生活形式〉の理解は、その発話トークンの理解のための必要条件である」と言い換えることができる。 山田は、ライオンと類比的な存在としてChatGPTを捉え、我々はChatGPTの発話を理解できないと帰結するのである。
生活形式の部分的な共有
我々が PI-II 223 を理解可能ということは、我々は Wittgenstein と生活形式を共有していることになる。 しかし、本当に我々は Wittgenstein と生活形式を共有しているのだろうか。 2024年の日本に存在する我々と、20世紀中葉のウィーンに存在した Wittgenstein が共有する生活形式はいかほどなのであろうか。 彼と我々が共有している生活形式は、どちらも言語を考えるものであるというほどであろう。 ここから、言語の解釈のために理解しなければならない生活形式は、部分的であればよいということが示唆される。 (たとえば、東京ディズニーランドのタートル・トークを考えてみよう。我々はクラッシュの生活形式を共有していないが、発話の意味を理解しているだろう。これは、言葉や多少の身なりに加え、生活形式が部分的に擬人化され、生活形式を多少共有するためである。)
ウェブ上の記事や一部の書籍から学習するという部分的な生活形式を共有することで、記述された知識に関して、ChatGPT の出力する文字列が意味をもつと我々は理解する。 したがって、「オンライン上の身体抜きの実践を共有する可能性はある」という山田の指摘は支持される。
しかしそうなのだろうか。 以下では、ざっと思いついた反論を述べてみたい。 この反論はより核心的であると私は考えている。
反論
ChatGPT が我々と部分的にしか生活形式を共有していないというのは prima facie である。 これは、本に記されている文章の発話主体の生活形式をその本に帰することと同じ誤謬である。 ChatGPT は仮象の主体であり、実際は人間の生活形式をもつ主体の言語をトレースしたものである。 我々は、プロキシーのように ChatGPT を解釈し、ChatGPT の出力する文字列を解釈するための生活形式を、ChatGPT ではなく人間に帰するのである。
このことにおいて、ライオンと ChatGPT を同等に捉えることは誤りである。 ライオンの発話を解釈する主体は、発話トークンが解釈上依存する生活形式をライオンの生活形式に帰するのに対して、ChatGPT の発話を解釈する主体は、発話トークンが解釈上依存する生活形式を人間の生活形式に帰する。 「季節の変わり目やセール時期を狙うと、お得な価格で靴を購入できます」という ChatGPT の回答に用いられる生活形式は、ChatGPT ではなく人間のそれに帰せられ、そのことによって発話トークンの理解は達成されるのだ。
したがって、ChatGPT が意味を持った発話を行っていると我々が承認するために、「オンライン上の身体抜きの実践」に限定する必要はない。
結論
私自身は、他我問題に関する解釈主義を拡大し、聞き手が自身と同等の〈環境〉や〈生活形式〉を発話主体に帰するというかたちで、意識に基づく意味概念を立てることが妥当だと考えている。 そのことにおいて、以下の Q1 に対しては、それは言語の主体性を言語を出力するエージェントに帰するか否かという以上のものではなく、解釈主体の解釈の関数に他ならないと答える。
Q1. 現在の ChatGPT (に代表される大規模自然言語モデル)は自らが算出している言葉の意味を理解しているといってよいのだろうか。