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同時実況シリーズ『メディア・コンテンツ論』

ゲーム実況がありうるなら書籍実況もありうるだろう。

はじめに

2016年6月に上梓された、シリーズ「メディアの未来」第6番の岡本 健・遠藤 英樹 編『メディア・コンテンツ論』を同時実況する。 15本の論考が載せられており、それぞれ多様な話題を扱っている。

高校生時分に一部を読んだことがあるが、読了していなかったので今読むことにした。

第Ⅰ部 メディアの変遷とコンテンツの在り方

第1章 メディアの発達と新たなメディア・コンテンツ論:現実・情報・虚構空間を横断した分析の必要性(岡本 健)

フィスクは、『テレビジョンカルチャー』の中で、コンテンツそのものを第一次テクストと呼び、それに関係した異なったタイプのテクストを第二次テクスト、第三次テクストと呼んだ(フィスク、1996)。それによると、第二次テクストは、コンテンツに関するプロモーション番組や芸能記事,番組批評などで、第三次テクストは、新聞への投書やうわさ話など、視聴者が生み出すものを指す。 (p.12)

「虚構内存在」が筒井康隆氏が創り出した概念である (p.12) ことは初めて知った。

第2章 アニメはどこから作られるのか:変わる原作の生まれ方(柿崎俊道

アニメ制作現場のレポート的論考。

第3章 メディア・コンテンツと著作権:「よき人生」のための「文化コモンズ論」「かかわり主義」(山田奨治

著作権の法学的解釈には自然権論とインセンティブ論の二者があるらしい。

著作権法は、より多くの財を生み出すインセンティブを著作者に与えるために必要だと考えられている。それを著作権のインセンテイブ論という。いっぽうで,著作物は著作者が天賦の才が生み出すもので、創作者の精神が反映されたものだから、それを保護するのが当然なのだという説もある。それを著作権自然権論という。 (p.40)

著者はクリエイティブ・コモンズ等の既存のコモンズ的機構が根源的にはインセンティブ論に基づいていると主張し、これらに対して M. Sunder が唱えるユーザー・コンテンツ中心主義的理論を提示する。

また、違法ダウンロード罰則化やTPPや韓国の著作権法改正を引き合いに、下位文化の国際政治・経済的要因に対する脆弱性を指摘する。 マルクスのいう上位構造(国際政治・経済)/下位構造(文化)という構造が剥き出しているのである。

第4章 コンテンツ論の新たな展開:「コンテンツ= 中身」論の限界と間コンテンツ性(井手口彰典)

本項には非常に感銘を受けた。 特に「要素の共有・非共有」や「間コンテンツ性」といったアイデアからはとても示唆を得た。 (ちなみに私が二年ほど前に画策していた『二次創作の代数』というトンデモ理論は、本項の命題「コンテンツの独創性が共有要素の頻度に反比例する」と記号論、TF-IDF 法が合体し、誕生したものである。) 『Bad Apple!!』の間コンテンツ性(間テクスト性)の分析は、インターネット空間上にある非言語的テクストの間テクスト性を分析した例として先駆である。

私はメディア・コンテンツ論における理論と文学理論の互換性の向上が図られることを祈っている。

第Ⅱ部 メディア・コンテンツ分析の視角

第5章 グローバル化の中のコンテンツ文化を考える:雑誌『Tarzan』に見る男性身体のイメージとその変容(岡井崇之)

記号論的民主主義に対するテクスト主義、批判的言説分析 男性向け雑誌の表象からアメリカニズムから非身体的な視点への変化を読み取るという主張は面白かった。

第6章 「ゾンビ」と人間・文化・社会:「他者」との関係性に注目して(岡本 健)

「ゾンビが異質な他者の表象である」という主張は興味深かった。 ここに『進撃の巨人』や『東京喰種』の文学性があるようである(私は視聴したことがないが)。 〈異質な他者の表象としてのゾンビ〉には『魔法少女まどか☆マギカ』の「魔女」もまた含まれてくるだろう。魔法少女とは、〈こちら側〉の人間が敵対しながらも実は自身の自己同一性を基づけているという両義性を持った〈あちら側〉の存在――ゾンビ――へと転化する必然性を引き受けた存在だ。〈此岸=生〉と〈彼岸=死〉の対立の中間項が〈生かつ死=ゾンビ〉の位相なのである。死者は何も語らない。しかしゾンビは我々の生に影響を与えうる。この意味でゾンビは我々生の世界における喫緊的課題の表象として浮かんでくるのである。魔女もまた、生の世界の人々を殺す意味でゾンビである。

第7章 「魔法少女」アニメからジェンダーを読み解く:「魔」と「少女」が交わるとき(須川亜紀子)

魔法少女という表象のジェンダー論的日本現代史的分析。

魔法少女まどか☆マギカ』の分析については、私は〈魔女〉が成人女性を表象しているという分析は的外れだと思う。 第一に、この作品は深夜帯に放送されており、対象となる視聴者は少女ではない。 第二に、成人女性になることが、鹿目まどかが円環の理になることほど辛いことであるという時代背景は無い。 私は〈魔女〉は死の表象だと思っている(第6節の主張とはズレるが)。 魔法少女への転化が不可避であることを知ることは、ハイデガーのいう死への先駆と同義である。

やはり『魔法少女まどか☆マギカ』は、魔法少女モノに対する批評的作品なのである(したがって、本項はメタ批評である)。

第8章 家族の視点から「J ホラー」を読み解く:変容する家族,メディア,恐怖(レーナ・エーロライネン)

Jホラーに関する論考であるが、私はホラー映画が分からず評価できない。すみません。

第9章 コンテンツ分析の視角としての「フォルム論」:推理小説,あるいは近代社会の自己意識をめぐる物語(遠藤英樹)

私は推理小説を全く読んだことが無く評価できない。すみません。 ただ、「形式(=フォーム)が内容(=コンテンツ)を規定する」という主張のためにマルクスの価値形態論を引く必要があったのかは疑問である。マクルーハンで十分ではないかと思った。フォルム論と構造主義的分析の違いが分からない。

以前読んだ『記号と再帰』では自然言語とプログラム言語の再帰が主題であったが、理論経済学者 Anthony Giddens は〈近代的再帰性〉という概念を提唱しているらしい。 中世から近代への移行に伴い自己同一性が自己の再帰により定義されるものとなったという主張らしい。

再帰辞書、作るか(作らない)。

yudukikun5120.hatenadiary.jp

第Ⅲ部 メディア・コンテンツと社会の関係性

第10章 グローバルな社会におけるメディア・コンテンツ:マレーシアと日本におけるインターネットとジャーナリズム(前田至剛)

インターネット使用に関するマレーシアと日本の違いの実証研究。 政治的要因も関わっている。 マレーシアは政治的言説の用としての使用が日本より主であるらしい。

第11章 コンテンツの国際的・地域的展開:スーパー戦隊シリーズのフォーマットとナラティブの関係(平 侑子)

特撮の戦隊モノの構造主義的分析。 国間の差異の議論は翻訳論と結びつけることができそうだと思った。 また、〈戦隊モノ〉のフォーマット(型)の部分が地域住民に了解されているために地域の戦隊が成り立つという議論があったが、確かにテクスト間の貫同一的部分がコミュニケーションの貨幣として機能するという事態は二次創作論の肝になりそうである。(たとえば視聴回数が伸びやすい動画は、料理や特定のキャラクターといった、消費者がコンテンツ消費以前に持っていた象徴記号を貨幣として内包していると考えられる。)

第12章 コンテンツビジネスの新たなあり方:アニメ番組の制作と二次利用を中心に(増本貴士)

アニメーションの権利処理について、製作委員会方式とSPC(特別目的会社)方式の違いが述べられる。 目眩がする。

第13章 コンテンツの「消費」の仕方と地域との出会い:「コスプレ」というコンテンツ文化(鎗水孝太)

着る二次創作ことコスプレと観光学の関係について述べられる。 衣服の記号論との接続が欲しかったところではある。

第14章 コンテンツツーリズムというアプローチ:アニメコンテンツと地域社会をめぐる新たな潮流とその特性から(山村高淑)

日本政府のポピュラカルチャーの行政史とコンテンツツーリズムについて述べられる。

おわりに

メディア・コンテンツ論では記号論は既に捨てられている感が否めない。

2016年出版とあって新しい議論が多いように思う。