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書評:『悪について (エーリッヒ・フロム)』——精神分析的ヒューマニズム

本書の原題は “The Heart of Man: Its Genius for Good and Evil” であり、「死への愛」・「悪性のナルシシズム」・「共生・近親相姦的固着」といった悪なる性向から人間の善と悪を照射する著作であることは他のレビューが既に指摘するところである。
人間が羊か狼かという二元論的問いから始まる本書は、その続章で暴力の形態を次のように分類する。すなわち、スキルを誇示するための「遊びの暴力」、恐怖心に基づく防衛や欲求不満の解消のための「反動的暴力」、自己意識を守護するための「復讐的暴力」、そして最も病的な形態の「補償的暴力」である。「補償的暴力」は生への補償であり、サディズムの衝動に代表される。いわく「生を創造できなければ、それを破壊する必要がある(33㌻)」。さらに「原初的暴力」もあるが、これはアステカ族の人身供養に見られるような "血の渇望" である。
第3章では「ネクロフィリア」という "衰退的" な性格志向を表す語が導入される。ネクロフィリア的性向の特性として、法と秩序への信奉や機械的、所有、確実性、闇と夜、官僚制度が挙げられる。
フロイト派と類されるフロムはここにネクロフィリア的性格とフロイトのリビドー理論における肛門性格との類似性(几帳面・倹約・強情)を見出し、ネクロフィリア的性格を "肛門性格" の悪性の性格形態であると述べる。ここにおいて我々は、精神分析学的・臨床学的知識と人文主義の邂逅を見ることができるだろう。
フロムは工業生産が生の原理に反するわけではないとしつつも、官僚組織的産業社会を超えた人文主義的産業社会を企図することが重要であると述べ本章を締める。また、フロイトユングの死の志向を発見した挿話は彼の殊なる洞察力を示すものであり大変興味深い。
第4章ではナルシシズムについて述べられる。「子宮のなかの胎児は絶対的(・自己満足的)なナルシシズムの状態に生きて(81㌻)」おり、客観的な論理的思考と対象を愛する能力の獲得がその状態からの進展と定義される。権力を手にした歴史上の人物にも、ナルシシズムとそれが導出する狂気を観察することができる。それがカエサル的狂気(=自分の欲望と力に限界がない存在であると見せかけるために孤立し誰もが彼の敵となるが、この恐怖に耐えるためにさらに大きな権力を持ち、非情さを増し、ナルシシズムを高めなければならなくなるさま)である。偏執的妄想は世界を自己の主体的感情で満たす精神病である。
道徳的心気症と呼ばれる状態もナルシシズムの一種とされる。道徳的心気症の患者は自責の念で頭が一杯であり、他人からは真面目で道徳的と見られるが、実質は自己の様態にしか興味がない。これは "否定的ナルシシズム" と似た精神様態である。
また、ナルシシズムは良性と悪性に分類され、それぞれ行為と所有に対するものとされる。すなわち悪性のナルシシズムは「自分が成し遂げたことではなく、自分が所有しているものに由来する(102㌻)」。「したがって、誰とも、あるいは何とも関わる必要はないし、何の努力も必要ない。偉大さを維持するために、どんどん現実から自分を分離していく。そしてナルシスティックに肥大化したエゴが空虚な妄想の産物だと暴露される危険から身を守るため、ナルシシズムをさらに高めていかなくてはならない。そのため悪性のナルシシズムは自己制御できず、結果的に、露骨に自己中心的なばかりでなく、他者を嫌うようになる(同)」。
この部分は資本家や政治家などエリート家系の子女の心理過程の正な記述として、書評者である私に記銘されたものである。
また、射程を集団に拡張した集団ナルシシズムについては、汎スラヴ主義や汎ゲルマン主義第一次世界大戦の端緒の一端となったことは確かであると述べている。仏教の "悟り" や耶蘇教の "汝の敵を愛せよ" といったヒューマニズム宗教の教義を敷衍し、ナルシシズムの克服が人間の目的であるとする。
今世紀にも下層中流階級が国に対して集団ナルシシズムを示し、愛国主義的政策が進められている国が存在することを鑑みると人文主義の理想はいかにと思う次第である。
第5章「近親相姦的なつながり」では、確実性や保護、愛を与える存在としての母、そしてそれが家族や民族、国粋主義へと転移するさまを説く。「近親相姦」とは、フロイトのエディプスコンプレックス概念を指す。
第6章では決定論に話題が移り、初章で提起された人間は本質的に善か悪かという議題に解決を与える。決定論と(自由意志的)非決定論の雙方を退け、選択の自由は善悪・行動・暗黙的力学・無意識的欲望・現実的可能性・結果の「自覚」に従うとする。「自覚とは、その人が自分で経験し、実験し、他者を観察し、そして最終的には無責任な"意見"を持つのではなく、確信を得ることによって学んだことを自分のものとするということである。一般原則によって決めるだけでは十分でない。この自覚を超越し、自分の内的な力のバランスと、無意識の力を隠している自己正当化を自覚する必要がある(185㌻)」。

最後に、出口剛司氏が『新訳に寄せて』に記しているようにポストモダン人文主義の関係を述べる必要があるだろう。
現在我々が住む世界はポストモダンである。ポストモダン相対主義多元主義から構成され、それは絶対主義的思想を脱構築するものである。したがって、人間の尊厳や倫理的価値、延いては善悪の区別までが個人の枠内に包摂されてしまうと思われる。
本書が訴える世界的博愛は相対化されては決して実現されえないために、フロムが理想とした人文主義ポストモダニズムの緊張関係の解決が現代を生きる我々の課題となるだろう。