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『東大ボカロ論』はいかに文化階級闘争を仕掛けているか

著者によって本書初頭に示されるように、鮎川ぱて『東大ボカロ論』は文化階級闘争を強く意識している。 本項では、鮎川が本書を通して文化階級闘争をどのように仕掛けているかを分析する。

著者の学校歴と書名『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』

本書の著者である鮎川は東京大学教養学部を卒業している。 また、本書の書名は『東京大学ボーカロイド音楽論」講義』である。 なるほど書名については編集者の意向にも左右されることは間違いないが、結果として、著者の学校歴および本書の書名が、著者の主張の正統性を東京大学という権威の庇護下に置くことを基因する事態を窺い知ることができる。 これを約言すれば次のようになろう。 すなわち、「音楽史はボカロの権威を保証してくれないけど、東京大学という権威はボカロを救ってくれる!」のである。

純粋主義的に述べれば、この売り文句自体がボカロに背を向けていることは指摘するまでもない。

性的消費

鮎川はボカロのキャラクターの性的消費率の低さを艦これのそれと比べ、「ボカロ界の健全性」を議論の前提に敷くのだが、鮎川はボカロ界さえ助かればよいと思っているのだろうか。 この論法を採れば、(一般に性的消費が高いとされる)艦これやブルーアーカイブを論じる価値の否定を帰結するだろう。

普遍主義と差異主義

ここでフェミニズム内にある二の主義を参照してみよう。普遍主義と差異主義である。前者は男女ジェンダーの本質的な違いを縮減する方向に、差異主義は母性(女性性)を強調する方向に特徴付けられる。

文化階級闘争は、これらの普遍主義と差異主義から分析することができる。 鮎川の述べるボカロの特性(函数性=無人称性)に関する主張は差異主義的であり、性的消費の低さに関する主張は、一般のリーヴィス主義的な芸術範疇に近づくという意味で普遍主義的である。

彼はこのように普遍主義的主張と差異主義的主張の両刃を用いて、ボカロ界1の芸術界(音楽界)に対する闘争を仕掛けているのである。


  1. 「ボカロ界」の「界」は P. Bourdieu の界概念を意味する。