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クリプキ――哲学的懐疑論による意味の不可能性――読書メモ:『規則と意味のパラドックス(飯田 隆)』

本書は、哲学的懐疑論における基礎的な論題である「グルー(grue)の逆説」と「クワス算」から始まる。「グルーの逆説」は、二十世紀の米国の著名な哲学者であるネルソン・グッドマンにより考案された。

「グルーの逆説」とは、大凡次のようであると私は理解している。

  1. 帰納法、すなわち「これまで観測されたすべてのXが性質pをもつならば、いまだ観測されていないXも性質pをもつ」という命題を真と仮定する。

  2. 「観測されていれば性質qをもつが、観測されていなければ性質rをもつ」という物質Aを考える(それがグルーである)。

  3. 帰納法における「性質p」に、物質Aの性質を代入すると、命題「これまで観測されたすべてのXが性質『観測されていれば性質qをもつが、観測されていなければ性質rをもつ』をもつならば、いまだ観測されていないXも性質『観測されていれば性質qをもつが、観測されていなければ性質rをもつ』をもつ」、すなわち「これまで観測されたすべてのXが性質qをもつならば、いまだ観測されていないXは性質『観測されていれば性質qをもつが、観測されていなければ性質rをもつ(=物質Aの性質)』をもつ」をえる。つまり、これまで観測されたすべてが性質qをもつ物質はAであることが帰結する。

  4. 性質rをいかなる述語に変えようが、前項の帰結が真となることは明らかである。特に、rにqを代入した場合の物質は、我々がふだん考えるふつうの(観測によらず性質qをもつ)物質である。

  5. したがって、帰納推論を頼ったとしても、観測されていない物質までが同じ性質をもつということはできず、むしろあらゆる性質を背負いうるといえる。

以上で導出されるように、我々がふだんそれなしでは生活を成り立たせることさえ難しい帰納推論の妥当性は、形式的な手段をもってしても疑われる。それどころか、帰納法が自らその無効性を主張しているようにも見えるのである。
この帰納推論の逆説性(=有限回の規則の適用から同じ規則が成り立つことを合理的に引き出すことは不可能)は本書を通して重要である。

次にクワス算が紹介されるが、この議論も帰納推論の逆説性と同様である。

クワス(quus)関数  \oplus は次で定義される(実際は異なるが、この議論では差し支えない)。

 x \oplus y = \begin{cases} x + y & 今まで行ってきた演算 \ 任意の数 & これから行う演算 \end{cases}

我々が行ってきた加算を語るとき、このクワス関数ではなく加算関数が適用されてきたことは合理的に明証されえない。それは「グルーの逆説」で見たとおり、帰納法が自壊的であるためである。

新たに計算を行う(=規則を適用する)ときには、過去の計算を帰納的に適用しているという理解が必要である。ふだん数学を利用した計算においては、規則(加算など)から演繹して解を得ると我々は思っているが、実際には規則の適用という行為が帰納的であることに注意が必要である。
我々は、規則を構成する諸々の記号――等号や加法子、そのほか自然言語で表される記号――が、帰納法――「斉一性の原理」といってもよい。『スーパー大辞林 3.0(三省堂)』の定義によれば、それは「事象が同一の事情のもとでは常に同一の在り方を示すように自然が統一ある秩序を保持していること」とされている――に従い同一の意味を示すものとして存在し続けることを認めることはできない。むしろ先に見たように、斉一性の原理は破綻しているため、規則をいかなる行為にも適合するように設計できてしまう。

「これまで私はAで……を意味してきた」という形の主張は、その正誤を成り立たせる事実そのものがないという理由で知識になりえないのである。
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こののち著者は、この結論からさらに驚くべき主張を導き出すことができると主張する。その主張は次のようである。

今日における言葉の意味は、明日になればその正誤を成り立たせる事実を失う。したがって、現在の言葉の意味はすべてを指しえてしまう。すなわち、言葉が特定の意味を持つことを立証できない。

このようにグルーの逆説およびクワス算の概念は、帰納による推論の自壊性と言葉の意味という概念への反対を帰結し破壊的である。

哲学的懐疑論とは、デカルトの「夢の懐疑」やラッセルの「世界五分前仮説」に見られるように、知識や過去の実在を疑うものであるが、この懐疑が帰納推論に向けられたとき、ヒュームは次のような懐疑的解決を考えた。すなわち、因果言明は我々の習慣により生成された世界に対する態度の投影であり、事実に関する言明ではないとする、投影主義の採用である。
クリプキは、意味が事実に基づくものではないという懐疑への解決策として、意味の「真理条件」と「正当化条件」を提唱するが、その妥当性については今も論争中である。

本書の後半では、演繹的推論が無限背進を誘因する事態について述べられる。この説明には、ルイス・キャロルのパズルと呼ばれる寓話が紹介されるが、これを摘要すれば、推論を行う際にはそのメタ的な推論が必要でありこの背進が無限に進むといった事態を指す。人がこのような「超仕事(super task)」を熟すことは不可能であるため、推論の階層において基礎的と思しきMP(モーダス・ポネンス)といった推論は、命題として書き下されるものではなく、「技能知」と呼ばれる概念に属するものであると著者は述べている。
なお、論理的真理が何に由来するかについては、それを思考法則とみなす「心理主義」と、超時空的な法則とみなす「プラトニズム」という対立した立場があるようだ。私が以前読んだ『哲学入門』の著者であるバートランド・ラッセルは、論理規則に関してプラトニズム的立場を取っている。

また、量子力学の立場から哲学に対して傲嘯する言説に対して、次の主張が反論として役立つかもしれない(実際に私が目にしたことのある話題である)。

論理の改訂や採用をめぐる哲学的議論には、「論理の形式化」の悪しき影響がもっとも顕著に見られるとクリプキは言う。論理的公理や推論規則を形式的に規定さえすれば、論理が定義できると考えるのが間違いであることは、(中略)明らかである。(中略)一定の哲学的考慮をその背景にもつ以上、テクニカルな研究それ自体が哲学的考察の代わりになるわけではない。

本書はクリプキの『ウィトゲンシュタインパラドックス』に関する主題を述べたものであり、クリプキ小伝や読書案内を付属している。

最後に、これは本書の要点というべき重要な主張である、クリプキが哲学的懐疑論の文脈において取り上げた『哲学探究』の201節を引用して締める。

われわれのパラドックスはこうであった。すなわち、規則は行為の仕方を決定できない、なぜならば、どのような行為の仕方も規則と一致させることができるからである。その答えはこうであった。すなわち、どんな行為の仕方も規則と一致させるようにできるのならば、それと矛盾させることもできる。それゆえ、ここには一致も矛盾も存在しないことになる。
哲学探究ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン)』 201節 前半