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辞書の自然主義的誤謬性

辞書は自然主義的誤謬を誘因する。

辞書は、我々の日常における語句や文章の用いられ方を観察することによって記述される、狭義の世界における〈ことばの在り方=有〉の記述の体系である。しかし辞書は「この語はこの意味において用いられねばならない」というように、社会において言葉の意味や指示対象を固定化・規範(=善)化する機能を持つ。

ここにおいて我々は、辞書の言葉に関する事象の〈有から善〉を誘導する機能を観察することができる。この〈有から善〉への暗黙的誘導は自然主義的誤謬そのものである。すなわち、観察により得られた言葉事象の記述を道徳律に置換する誤謬である。

ただしこれを誤謬であると批判する際において、言語は本質的に流動的であって規範など存在しないから我々は自由に言葉の意味を定めてよいのだ、という論理を用いることもこれまた自然主義的誤謬であって無効な議論である。

追記

『実験哲学入門』の第7章「道徳の実験哲学2――メタ倫理学」(手元に本書が無いので第6章かもしれない)の注16が面白かった。

規範的な前提を持ち込むことが常に不可避であって、非規範的な前提だけから規範的結論を導くことはできない―いわゆる「自然主義的誤謬」は本当に誤謬である―のかというと、そうとは言い切れない。

あらゆる日本人は人間である。ゆえに、あらゆる日本人は人間がなすべきことをなすべきである。     \forall x (Jx  \to Hx) \therefore \forall x(Hx \to Ox) \to \forall x (Jx \to Ox)  J:日本人である、 H:人間である、 O:一定のことをなすべきである)

この議論は、古典述語論理で妥当である。

言われてみれば「確かに」と頷くことができる。 古典述語論理を用いて自然主義的誤謬の非誤謬性を主張するというアイデアは、面白いなぁと思った。

ただやっぱり自然主義的誤謬の誤謬性を擁護したいのであれば、述語は「べき」といった規範的なものを許さないとか、そういったチューニングが必要になるのだと思う。 ただ、このような試みがどこまで上手くいくかは分からない。