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『超解読! はじめてのフッサール『現象学の理念』』の〈意識〉の解読

次は、講談社現代新書竹田青嗣『超解読! はじめてのフッサール現象学の理念』』からの引用である。

また、「反省された意識」はもはや「反省される以前の意識」とは違うから、現象学的な内省は、〈内在意識〉を正しくとらえることはできない、などといった批判もよくある。しかし、これも的の外れた批判である。それは「あることがらそれ自体」という観念を純粋なものと考える「本体論者」(=それ自体のものがある)がよくやる批判である。 どんなものもそれが把握されるには、一定の反省作用、つまり対象化作用が必要である。反省によって対象化されたものが他人のそれと同じ「構造」をもつといえるかどうかが問題であって、それが「もとのものと同じかどうか」はまったく問題ではない。 この批判は、要するに、対象化されたもの(主観)が、対象化される前のもの(超越)と「同一かどうか」という、主観‐客観図式を反復しているにすぎない。

何を言っているのか分からない私のために説明してあげよう。

まず、自然言語で「反省された意識」やら「反省される以前の意識」やらと言われても分かりづらいので、反省(対象化)作用素〈◎〉を導入する。これにより反省された意識は〈◎意識〉と表される。反省される以前の意識は〈意識〉そのものである。

主客図式においては、〈◎意識〉が主体であり〈意識〉が客体である。すなわち、反省作用素は客体を主体に変換する作用をもつ。

本体論者の現象学的反省に対する反論は、〈意識〉の同一性を問題にしなければ、〈意識〉を〈把握〉することはできないというものである。

ただし、我々は反省されたものしか〈把握〉することはできない。

現象学においては、〈意識〉そのものではなく、〈◎意識〉の同一性を問題にしているのである。