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音MAD/YTPMV研究に楽理は必要か?

ポピュラー音楽の分野でも、P. Tagg らによって楽理の不必要性は喧伝されてきたらしい。 というのも、社会学の上に建設されたポピュラー音楽は、その社会学性によって外在主義的立場を取るからである。

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前掲論文の著者である川本によれば、楽理的ポピュラー音楽研究は、コード進行等の音楽的特徴に関するコーパス的(統計的)研究も視野に入れているらしく、音楽情報処理とオーバーラップするところがある。

音MAD/YTPMV研究に楽理は必要か

音MAD/YTPMVがポピュラー音楽という範疇に入るかは今後の音MAD/YTPMV研究の成果次第という気がするが、仮に入ったとして、ポピュラー音楽研究と同じように楽理的研究を不必要とするのだろうか。 音MAD/YTPMVの特性を鑑みると、楽理はあまり役に立たないのではないかと私自身は思っている。 というのも先述した論文で示した通り、音MAD/YTPMVの特性は音色の自由性やそれが基因する間テクスト性等になるだろうからである。 音MAD/YTPMV作品の楽理的な分析は必然的に原曲の分析となってしまい、音MAD/YTPMV自体に関する分析とはならないと思われる。

ただし音色が特徴であるのであれば、逆に音色に関する研究はありうるとは思う。 たとえば、音MAD/YTPMVで頻用される音色(たとえば、ドナルド・マクドナルドの「ランランルー」の部分「ラン」など)の波形が、西洋古典音楽のどの楽器の音色に類似するかといった研究はありうる。