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新聞の「〜という批判も噴出しそうだ」という表現について

新聞社が「〜という批判も噴出しそうだ」というような、価値判断を留保した、扇動的とも見える表現を用いることに対する批判がある。この批判をする人にとっては、新聞社が自身の意見を客観的な表現に写すことが欺瞞的に思えるようだ。

ただし私は、この表現の使用が報道機関の事実伝達の中立性に適っていると評価する。なぜならば、価値判断の留保=括弧入れ=エポケーは価値判断の排除=客観性の獲得に寄与するからである。「〜という批判も噴出しそうだ」における無名主語を用いた文は、現象それ自体の記述であることにおいて価値判断を含んでいない。

ただ、語用論的には、記者が発生しそうだと考えている批判を行う主体が、実際のところ、無名的主体ではなく新聞社または記者彼自身であることが問題であるのだろう。記者は以後噴出するであろう批判を自身のイデオロギーの下に選択可能であることにおいて中立性を失っている。このことは、図書館の選書や、キュレーションアルゴリズムが価値判断的関数であるという話題に相似であろう。

社会は価値判断のネットワークなのであって、そのネットワーク上の事象の記述それ自体は極めて客観的である。しかし、「〜という批判も噴出しそうだ」は現象的命題であると同時に、読者に特定の批判=イデオロギーを植え付ける倫理的命題でもある。この作用/副作用は、つまるところ新聞社や記者の(イデオロギー増幅の)目的次第でいかようにも用いることはできるという点で、批判者がいうようにやはりイービルであると帰結できよう。