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英語で論文を書くことが英語帝国主義であるという主張について

しばしば「英語で論文を書くことは英語帝国主義である」という主張がある。自国語で論文を書かないことが認識的多様性を損なう(周辺的不正義を助長する)という主張である。

しかし私はこの主張は仮言的であると考える。つまり、「言語に周辺的な存在論が含まれるかいなか」で答えは変わってくるということである。

  1. 「言語に周辺的な存在論が含まれる」場合。英語で論文を書くことが周辺的不正義の助長に繋がることは必然的であるように思われる。なぜなら、言語に存在論が含まれている場合、自国語から英語への翻訳の過程や読みの過程において、その言語独自の認識論や存在論が失われることがあるからだ。

これは言語相対主義的な主張である。つまり、1. の主張の妥当性は、言語相対主義の妥当性によって変化する。現在において言語相対主義が劣勢であることを考えると、この主張の妥当性は弱いように考えられる。

  1. 「言語に周辺的な存在論が含まれない」場合。言語間において(デイヴィドソン的な意味において)翻訳が可能であり、論旨の主張のうちにおいて言語独自の認識論・存在論が含まれない場合には、むしろ英語で論文を出版しない方が言語的不正義を助長すると思われる。なぜなら、一般に英語以外の論文は読まれることがないからである。英語以外の論文が読まれないということは、その文献の潜在的な引用可能性を減らすことになる。そしてそのことは、英語以外の言語において書かれた論文の可用性を減らし、英語圏以外の周辺的文化や地域の構造的な軽視、つまり周辺的不正義を助長することに繋がるだろう。

したがって、私は基本的には 2. を支持する。日本人が国際的なジャーナルにおいて英語論文を出版することは、英語帝国主義的でもなく、周辺的不正義を助長もしない。むしろ将来的には、日本人の哲学者の国際的なプレゼンスを高めることに繋がり、それは翻って西洋中心主義的な哲学において、認識的多様性を高めることや周辺的不正義を抑制することに繋がるだろう。

ここで得られた主張からの傍系として、機械翻訳の利用の正当化が挙げられる。翻訳を重視する人文系において、機械翻訳はしばしば敵視されやすい。しかしながら、じっさいに多言語に習熟することが(記述的な意味において)難しい非英語話者にとって、英語による論文の出版に寄与するのは明らかに機械翻訳である。酷い翻訳もたしかに存在するだろう。しかしそうであったとしても、機械翻訳それじたいが悪いということにはならない。人間は機械翻訳の出力の妥当性を検証することができるからだ。

おわりに

「英語で論文を書くことが英語帝国主義である」という主張は一見すれば妥当だが、じっさいのところ妥当とは言えないことを示した。師弟制度や単著出版が基本の人文系では、日本語しか見ていないケースが多いように思われる。しかしその認識論的に正当化されていない保守的・慣習的な文化が、言語的不正義を起因する可能性がある。さらに、人口減により日本語がオワコンになりつつあるなかで、日本語だけで論文を書いていると、ますます人文系に国がお金を回す意味が無くなって、自らの首を締めることになると思われる。

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